五、招
男が立ち上がると少女はその姿を上から下まで眺めた。それに釣られて男も自分の姿を見つめる。ぼろぼろの衣から覗く薄汚れた肌からは微かに血が滲み、泥が跳ねていた。誉められた姿ではないだろう。少女は半ば感心したように、
「随分な出で立ちだな」
と頷いた。その最中も黒耀は苛立った視線を男に向けている。男は何も言わず、ただそれを受け止めていた。
「さて。お前、これからどうしたい?」
ひとしきり男の姿を改めた少女はそう男に問いかけた。予想もしなかったそれに男は首をかしげる。
「奴らから預かった以上、お前を奴らに売り渡した人間へ復讐するなどと言うのなら私はお前を止めなければならないのだが」
少女の言葉に男は無言のまま首を横に振った。
「やはり、俺は売られたのだな」
ほぼ確信していたことを改めて口にする。
今までこの山奥で生き永らえてきた間、狩人など一人として来たことがなかった。それが今になってやって来るということは、穢れの鬼の存在を知る誰かが狩人を呼び寄せたのだろう。
「だろうな。憎いか、人間が」
少女の目は男を静かに捉えている。男は再び首を横に振った。
人間への憎しみはとうに枯れ果てていた。復讐の意思など毛頭ない。復讐の呪詛をまとい、何度も知りもしない誰かの仇をとったが、それで何が変わるわけではないことを男は知っていた。男に呪詛を与えただけでは飽き足らず、狩人へと売り渡した人間たちを殺し回ったところで自身が穢鬼であるという現実からは逃れられない。“生きる”ことには繋がらない。そんな復讐は虚しいだけだ。
男は真っ直ぐに少女を見つめ返した。
「……何故、俺を助けた」
「やれやれ。またそれか」
そう言って少女は肩をすくめる。しかし、男は淀みなく言葉を繋いだ。
「何のために俺を助けた」
何のために“生かされた”かを問いかける。少女は男の目を覗き込んでにやりと笑った。
「だから暇潰しさ。こんな辺境の地で暇を持て余していたら都の馬鹿共が我が物顔で歩いていてな。退屈しのぎに少しからかってやろうと思ったら面白い眼の男を連れていたのだ。それを奴らに渡してしまうのは勿体ないと思ったから引き取った」
まるで男の反応を測っているようだ。一方、男は無感動に少女を見つめ返していた。だが、内心は妙なところに引っ掛かっていたものが胃の腑に落ちたように安堵していた。
この少女を見る限り、“暇潰し”という目的以上のものがあるようには思えない。この救いの手が何の理由もなく差し出されたものでないということが男にとって幸となるか不幸となるかは不明だが、無償の救いの手などという得体の知れないものよりは余程よかった。
「暇を潰すために俺を救ったというのなら、俺に何を望む」
何を代償とするのか、男は問いかける。すると少女は一瞬目を丸くして見開き、次の瞬間にはからからと笑い出した。
「これは愉快だ! いつの間にやら問う者と問われる者が逆転している」
そう言って腹を抱える少女の背後では黒耀が一際鋭い視線で男を睨み付けていた。向けられた敵意は猟犬たちをも震え上がらせたそれと同じものだったが、男は恐れなかった。敵意を向けられるのには慣れている。それよりも何かを含む笑みを浮かべたまま、瞳の奥の真意を隠したままの少女の方が恐ろしかった。
その少女は口角を吊り上げ、にやりと笑い、口を開く。
「では、お前に望もう」
宣旨が下るかのような厳かな空気が場を満たす。少女の目は真っ直ぐ男を捉えていた。
「もし、お前が人並みの礼儀を心得ていて、受けた恩に報いようと思うのなら我が屋敷へ来い。礼儀を心得ておらん上に恩義すらないと思うのならばどこへなりとも行くがいい。民草に害を為さん限りは好きに生きよ」
どうだ、と試すように少女は首をかしげる。男は一瞬逡巡した。
今、目の前に焦がれ続けていた自由がある。それを選び取れば、もう何にも縛られず、忌まれることもなく生きていけるだろう。人の寄り付かない山奥なら誰の目にもつかず、関わらず、命を脅かされることもない。
しかし、助けられたことに恩義を感じないほど男の心は鬼になりきれていなかった。
「……人並みの礼儀は心得ているつもりだ」
少女は目を細め、愉快そうにくすくすと笑う。
「そうか。呪詛の鬼にも礼儀はあったか!」
その言葉に男はぎゅっと眉根を寄せた。
「……俺を知っているのか?」
呪詛の鬼、という言葉はこの土地に奉られた存在を知らなければ使えないはずだ。この少女は自分が“面白い目”をしていたから助けたのではないのか、と男の胸に暗澹たる疑念が広がる。
「風の噂で、この地には呪詛を纏う穢れの鬼が奉られていると聞いた」
飄々とした様子で少女は言った。そして、こてりと首をかしげる。
「お前、名は?」
男は目を見開いた。まじまじと少女を見つめても、少女は至極真面目な様子で男の答えを待っている。そこにある自らの言葉の矛盾など知りもしない様子だ。
「……穢鬼、だ。俺がその穢れの鬼だ」
男がそう告げると少女は怪訝そうな顔をした。それから、ふんと鼻を鳴らす。
「それはお前の内に在る者の名だろう。お前の名は何と言う」
名は、と聞かれて真っ先に思い浮かんだのは“穢鬼”だった。記憶のどこにもそれ以外、男を指し示す言葉はない。男は穢れの鬼であり、それ以外の何者でもないのだ。男はゆっくりと首を横に振った。
「俺は穢鬼だ」
少女が眉間のしわを深くする。しかし、ふっと力を抜いてしわを消すとやれやれとため息をついた。
「まあ、いい。お前は私が屋敷へ招いた客人だ」
半ば呆れたような様子で少女はそう結論付ける。すると、長く沈黙を守っていた黒耀が口を開いた。
「主」
「どうした、黒耀」
呼び掛けに答え、少女は振り向いた。黒曜はちら、と男に目をやりながら、真っ直ぐに主人を見つめる。
「このような者を連れ帰っては緋衣も良い顔をしないでしょう」
その声音にはあからさまに穢れの鬼を迎え入れるのを拒む響きが含まれていた。聞きなれたその響きを当然だと男は思う。しかし、少女は異なる反応を示した。
「そうだな。この身なりでは奴の小言の餌食だろう。少し身綺麗になってもらわんとな」
まるで話が噛み合っていないような様子で言うと少女は空を仰ぐ。男も吊られて、眩さに目を細めながら顔を上げた。生い茂る青葉の隙間から透明な光が降り注ぎ、青空が顔を覗かせている。
「疾風」
ぽつり、と呟くように少女が口を開いた。刹那、木々を揺らし、風が駆け抜ける。そして、黒い影が男の視界の角を掠めた。
「ここに」
低く響く声が己の存在を告げる。いつの間に現れたのか、一人の男が少女の目の前で片膝をつき、頭を垂れていた。
「緋衣に言伝てを頼む。客を連れ帰る故、酒と風呂の支度をしておくように、とな」
少女は突如として現れた存在に驚きもせず、そう言った。黒耀もそれがさも当然のように控えている。男は深く頭を垂れたまま、
「承知いたしました」
と言って顔を上げた。精悍な横顔の山吹色の切れ目が少女を捉える。そして、音もなく立ち上がった。次の瞬間、瞬く間にその姿が消える。男は目を見張った。それはまるで空を駆ける疾風のようだ。
「さてと。帰るとするか」
あくまで暢気に、のんびりと少女は言う。それからくるりと踵を返すと黒耀の背後にいた栗毛の馬の手綱に手を伸ばし、ひらりとその背に跨がった。
「行こう、客人。我が屋敷へ」
そう言って少女が手綱を引くと馬は従順に歩き出す。黒耀は一度だけ男を一瞥すると主人に従ってそれに続いた。
男は二つの背中をぼんやりと見つめる。その中の一つ、小さな背中は今まで見た誰とも異なる背中だ。敵ではないが真意の読めない存在。それは恐ろしく、しかし何故か美しかった。
「おおい、どうした。早く来い」
振り向いた小さな背中が男を呼ぶ。その表情は輝かんばかりに無邪気だった。
敵ではないのだ。男は心の中で呟く。今はそれで十分なはずだ。男は光の中を歩き出した。
第一章ターニングポイント! 折り返し地点まで来ましたー。
ちなみに昨夜、初のお気に入り登録がされていることに気付きました。
ありがとうございます! これからもよろしくお願いします!