四、差し伸べられた手
少女は揃えた人差し指と中指を縄に向けた。そして、男にも聴き取れないほどの小声で何かを呟く。その瞬間、男を戒めていたものが弾け飛んで消えた。その場に居た、少女以外の全ての者が目を見開いた。
「貴様っ、何をする!」
馬上の男の側に控えていた一人が吠え、他の者たちもざわめきながら敵意を露にしていく。薄い布の下に隠されていた刃がそろそろと露になっていくような雰囲気に男は身を強ばらせた。しかし、少女は取るに足りないことだと言いたげな表情で立ち上がると男に手を差し伸べた。
「立てるか?」
純然たる素朴な問いかけだった。男は信じられない心地でそれを見つめる。その手が何を意味するのか、全く読めない。少女の顔を見上げると彼女は手を取らないのを不思議がるように男を見つめ返していた。
「四季宮殿。それ以上の勝手は皇子への反意とも捉えられます。お退き下さ い」
馬上の男の声は背筋が凍えるような冷たい響きを帯びていた。事の次第によってはただでは済まさない、と暗に言っているようなものだ。しかし、少女はそよ風が少し強い風になった程度の反応で、黙っていろと言いたげに、振り向きもせず馬上の男へ向かって片手をひらひらと振るだけだった。
「立てぬのか?」
少女の問いかけに男は僅かにだが首を横に振る。立てるか否かと訊かれれば、辛うじて立てると答えられるが、何の理由もなく差し伸べられる救いの手が男には恐ろしかった。
男の記憶の中で、救いの手が差し伸べられたのは一度きりだ。しかし、それは無償ではなかった。社の主から差し伸べられた手は命を救う代わりに男から多くのものを奪っていった。
この手は狩人から自分を救い上げてくれる。しかし、今度は何を失うのだろうか。そう男が迷っている間に狩人たちが動いた。
「四季宮殿。我らも手荒な手段には出たくないのです」
馬上の男がそう口にした瞬間、周囲の気配が一変した。獣の臭いが鼻を突き、荒い息づかいが聴こえる。森の静閑とした空気が瞬く間に荒々しい敵意に染まった。猟犬だ、と男は少女を見る。このままでは彼女があの闘争本能の化身に食い破られてしまうのでは、と男が危惧する中、少女の顔に恐れはなかった。それどころか、やれやれと呆れたように肩を竦めている。恐怖など一欠片もなかった。
「相変わらず、堪え性がないな。明石殿」
そう言って少女は差し伸べていた手を降ろし、男から顔を背けた。唯一の希望を自ら捨ててしまったのかもしれない、と微かな後悔が男の胸中を過る。しかし、やはり理由のない救いの手への恐怖は拭いきれなかった。
「黒耀」
少女は男に背を向け、静かにその名を呼ぶ。刹那、再び全てを圧倒するような、威圧的な気配が爆ぜた。それは先程の比ではなく、明らかな殺意が包容され、猟犬たちの気配などいとも容易く掻き消した。少女に集中していた視線が全て、その気配の元、黒耀に殺到する。
「さて、明石殿。貴殿らの可愛い仔犬が私の犬に敵うと思うか?」
少女の笑い声だけが森の中で響いていた。いつの間にか猟犬たちの唸り声は止み、刺すような敵意も消えている。感じられるのは怯えだけだった。
(猟犬たちが、怯えている……?)
ただ一人の存在に獰猛な猟犬たちが一匹残らず恐れ戦いている。ぴんと張り詰めた緊張感の中、少女のくすくすという笑い声がひどく場違いに聞こえた。
「私の犬は中々に気が短くてな。一度牙を剥けば、なだめるのは私でも難しい」
男はよろよろと身を起こした。今まで横倒しで引きずり回されていたせいか、頭が重く感じる。それでも何とか体を支え、男はその姿を見た。
黒い直垂姿の男だった。腰紐に太刀こそ帯びていないものの、肩まで着かない程度の黒髪がその体から立ち上る殺気で揺れているように見える。前髪から覗く紅い双眸は爛々と輝き、まるで刃のように鋭く周囲を睨んでいた。
「皆様方の可愛い仔犬もただでは済むまい」
そう言って女は、狩人たちがその一挙一動を張り詰めた様子で注視する中、懐に手をやった。そして、鮮やかな朱色の紐で口を閉じた山吹色の巾着を取り出す。女は紐をつまむとそれをゆらゆらと揺らして見せた。
「この者、私が預かる。これはこんな田舎まで足を運んだ貴殿らへの手間賃だ」
狩人たちの表情が皆同様に強ばった。中には怒りの表情を露にする者もいる。そんな中、馬上の男、明石だけは微動だにせず、ただ唇を噛み締めていた。少女はそんな彼を見上げ、笑いかける。
「なあ、明石殿。私も要らぬ手間をかけたくはないのだ。貴殿らも可愛い仔犬を失いたくはないだろう? どちらにとっても無益な結末を選ぶはあまりに愚かではないか」
沈黙が降りた。誰も動こうとしない。狩人たちは固唾を飲んで明石の言葉を待っていた。黒耀は少女の言葉を待っている。そして、その少女はただ笑っていた。男はそれらの様子を、息を殺して見守る。森を抜けていく風はざわざわと木々を揺らしていった。
「……和泉」
明石が口を開く。その言葉にその側に控えていた男が動いた。一度、少女に向かって吠えていた男だ。明石は和泉というその男に声もなく、目だけで指示を出す。その意を汲んだ和泉は顔には出さないものの、ためらうように、悔しげに少女へと歩み寄った。少女は笑みを深くする。
「英断だ」
少女は明石の判断をそう評価した。その一言に狩人たちの様子がさらに刺々しくなるも、彼女がそれを気に止める様子はない。
まるで胡蝶のようだ、と男は思った。相手がどんな言葉を用いようと、どんな行動に出ようと、微笑を浮かべながらひらりひらりと舞いかわし、決して捕らえられることなく逆に相手を翻弄する。その様は美しかった。
「それでは、お忙しい皆様方をこれ以上お引き止めはすまい。都におわす我が主の君によろしく伝えてくれ」
そう言って少女はわざとらしいほど恭しく頭を垂れる。明石は塗りつぶしたような無表情を背け、くっと手綱を引いた。明石の馬の歩みに合わせ、一団が再び歩き出す。男は呆然とその背中を見送っていた。
(助かった、のか……?)
信じられない心地で小さくなっていく背中を見つめる。そして、その背中が山道の向こうに消えた頃、ようやく実感が沸いてきた。
(……助け、られたのか)
その事実に胸の奥から苦いものがせり上がってくる。また、という言葉が頭の中で反響していた。しかし、その言葉を打ち消すこの場にそぐわない音が宙を揺らす。
「くくく……っ」
地べたに膝をつけたままの男の耳に喉を鳴らす笑い声が届いた。見れば、彼女は表情を歪め、口の端を吊り上げて愉快そうに笑っていた。
「ふ、はははははっ!」
ついに耐えかねたのか、高らかな笑い声が森に木霊する。それを見た黒耀はぐっと眉間にしわを寄せた。
「……何を、笑っていらっしゃるのですか」
唸るような低い声で彼は問いかける。そこに先程までの刺々しい気配はなかったが表情は不服そうだ。しかし、片や少女の顔は晴れやかだった。
「何を、だと? 黒耀、お前も見ただろう。彼奴らの顔! ああ、傑作だ!」
そう言って少女はひとしきり笑い続けた。そして、その気がようやく済んだ頃、やっと男に目をやった。
「ふう……。さて、お前。立てるのだろう? いつまでも座り込んでいても仕方がない。立て」
男の前に再び手が差し出される。男はその手を見てから、すっと少女の顔を見上げた。そこには穢れの鬼に対する恐怖も、嫌忌も、悪意もない。それが逆に恐ろしかった。
「……何故だ」
何の迷いもない表情に問いかける。次の瞬間、黒耀が吠えた。
「貴様! それが命を救われた者の言葉かっ!」
今にも噛みつかん勢いの剣幕で黒耀が目を剥く。しかし、少女はそれを片手で制した。
「黒耀、止めろ」
少女は静かに制止をかける。黒耀は一瞬言葉を留めたものの、納得がいかないのか食い下がった。
「しかし……!」
「いいから少し静かにしていろ」
その一言で黒耀を静めると少女は男に笑いかけた。
「……いい眼をしている」
すうっと細められた目の奥で楽しげな光が揺れている。その目に男はもう一度問いかけた。
「何故、俺を助けた」
「なんだ。死にたかったのか?」
そう目を丸くする少女に男は無言のまま頭を振った。すると少女はからからと楽しげに笑い出す。それから、ずい、と差し出された手が男に近付いた。
「なら何を構うことがある。別に取って食うつもりなどないさ。立て」
その言葉が偽りのようには感じられない。しかし、男にはその手を取ることが出来なかった。
「……理由もなく俺を助けるというのか」
男の言葉に、声こそ出さないものの、黒耀の敵意に満ちた鋭い眼差しが男を射抜く。しかし、男は臆することなく少女を見つめていた。にやり、と少女の口角がつり上がる。老獪なその笑みは本能的に恐怖の感情を駆り立てた。だが、男はぐっと顎を引き、目を反らすことなく少女の瞳の奥にある本心を探ろうとする。すると少女はくっと笑みを深くした。
「ふふ……。そう勘ぐるな。ただの暇潰しだ」
「暇、潰し……?」
予想もしなかった答えに呆然と男が聞き返す。それに対して少女は淀みなく頷いた。
「さあ、理由もはっきりしたのだ。いい加減に立ってくれ」
少女の言葉に男は眼前の手を凝視した。今度は何を失うのだろう。そんな迷いが男の胸の中でとぐろを巻いている。しかし、何を失ったとしても命さえ残れば、いつか自分の力で“生きる”ことが出来るかもしれない。そんな思いが男を突き動かす。
男は薄汚れた手を、差し伸べられた白い手に伸ばした。
暇潰しに助けられた穢鬼様の運命や、如何に!
……と煽り文句をつけてみる。
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