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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第三章 己の在るべき場所
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十、平穏




 朝日が昇り、御影(みかげ)は目を覚ました。普段ならすぐに身を起こして身支度を済ませる。その間、漂ってくる朝餉(あさげ)の匂いに胸を膨らませるのが最早、習慣となっていたが御影は今、それに逆らっていた。

 居心地のいい温もりの中で微睡(まどろ)む。思考の中の全てがぼんやりとぼやけ、滲み、溶け合って、どうでもよくなってくる。そこは御影を拒まない、傷付けない、静かに抱く場所だ。いつまでも居たいと思う。しかし、それが叶わないと知っている。

 御影は目を見開いた。のろのろと未練がましく温もりから抜け出せば、刺すような冷気が現実を教える。混沌とした思考はあるべき姿を取り戻していた。


(朝、か……)


 あれからどれほどの時間が経ったのだろう、と思う。不安に怯えたまま、震えながら布団に潜り込んでからいつ眠りに落ちたかも定かではない。ただ、気付けば朝が来ていた。何事もなかったように、いつもと同じように太陽が昇り、全てを見下ろしていた月は疾うに消え、闇夜に紛れて見聞きしたものが夢だったかのように思える。


(夢……)


 そう、あれは夢だった。全て眠りの内での出来事だ。そんな思い込みを自分に言い聞かせても虚しいだけだった。恐怖も不安も、その身に刻まれたかのように覚えている。感情も声も、生々しく御影の内に残っていた。


(俺は)


 その先に言葉はない。人間、穢鬼(えき)、御影。そのどれもが脳裏に浮かんでは霧散する。輪郭を失い、姿を消す。それは今の自分のように思えた。


(俺は……何だ)


 何も知らない。世界も彼らも、己のことすらも知らない。それが歯がゆかった。不可視の闇がじわじわと迫ってくる。そんな気がした。しかし、呑まれはしない。

 御影はぶるぶると頭を振った。無理矢理、思考を停滞させる。考えれば考えるほど闇は迫ってくるのだから、今は理由などなくとも昨日までの平穏を信じたい、と御影は思った。


「御影」


 その名を与えた光が呼んでいる気がした。


 広間の空気はいつもと同じだった。

 上座にて、朝餉を待つ梓。胡座を組み、目を閉じてじっとしている疾風(はやて)。御影に鋭い視線を送る黒耀(こくよう)緋衣(ひい)は勝手場にいるのだろう。

 御影は円座に腰を降ろすとため息を吐いた。いつもと何ら変わりないはずなのに、それを作り物のように感じてしまう自分がいる。昨日の話を胸の奥深くに隠してこうしているのだと思うと彼らを酷く遠く感じた。


「皆さん、おはようございます」


 いつもと変わらない笑顔で緋衣が朝餉の膳を運んでくる。やはり、彼女の存在も遠く感じた。周りに人がいても孤独を感じることがある。御影は初めてその事を知った。庵の中にいた頃より強い孤独感を感じた。

 そんな気持ちのまま口にした朝餉は味気ない。まるで砂を噛んでいるようだ。


「御影さん。どこかお加減が悪いのですか?」


 不意に緋衣が口を開いた。目をやると、眉根を寄せた緋衣が小さく首をかしげている。


「ずっと難しい顔をなさっていますよ?」


「……いや、何でもない」


 そう誤魔化すように否定の言葉を口にして、御影は箸を進めた。しかし、正直なところ具合は良くない。体は何ともないが、心は鉛を抱いたように重く、冷たいままだった。

 ちら、と梓の方を横目に見る。いつもながら旺盛な食欲で二杯目の米を頬張る彼女はいつも通りの彼女だった。その姿からは昨日のことなど想像もつかない。重大なことなど、何一つ起こっていないのではないかと思えた。

 しかし、昨夜の影は唐突に平穏を切り裂いた。


「御影」


 いつものように梓が御影を呼ぶ。そして、御影がいつものように顔を向けると梓は口を開いた。


「お前はいつから“穢鬼”を名乗っていた?」


 御影は小さく息を飲んだ。薄氷のような平穏を破って現れたのは引き絞られた矢だ。その気になればすぐに御影の胸を貫き、命を絶つことが出来る。

 御影は内心後ずさりながら、不安と恐怖の暗雲が立ち込めるのを感じていた。


「どういう、意味だ」


 恐怖に駆られながらも何とか言葉を絞り出す。すると梓は首をすくめた。


「意味も何もないさ。お前は元々人間で、それがいつの頃からか穢れの鬼と化した。いつからそうなったのかを知りたい」


 梓は笑うでもなく、問い詰めるでもなく、静かに御影の答えを待っていた。澄んだ水面のような瞳の奥に淡い光が息づいている。期待にも似たそれ一直線に御影へと注がれていた。

 御影は息を止めた。その場に満ちる空気は毒だった。口に入れば瞬く間に喉を焼き、息の根を止める。御影の生きてきた平穏を哀れな骸へと変える。だから御影は息を止め、鈍感であろうとした。肌を刺す幾対かの視線を感じ取らぬように勤めていた。


「御影?」


 口を閉ざし続ける御影に梓は呼び掛ける。しかし、御影は一言も発することはなかった。

 人間であった頃。最奥の記憶。

 はっきりと覚えている訳ではない。だが、朧げな記憶の中に名もない男がいる。何故だか、その存在を口外することは憚られた。何故だっただろうか。思い出すことのできない忘却の向こうでその理由は眠っている。忌まわしい、おぞましい闇を纏って深い深い眠りについていた。


「……無理に語れとは言わぬ」


 ふ、と梓は目をそらした。その横顔がどこか落胆したように見えて、御影は俯きがちに視線を伏せる。しかし、それでも口を開くとこは出来なかった。

 己の生きた平穏が胸の内で虫の息になっているのを感じていた。


 食後の茶も飲まずに、御影は広間を出た。その心中では相反する思いが攻めぎ合っている。

 知りたい。知りたくない。

 知りたい。知りたくない。

 そればかりが頭をぐるぐると回り、御影は目眩がしそうな頭を抱え、どこか一人で落ち着けるような場所を探していた。

 自分の部屋、屋敷の外の森、河原。

 色々と考えたが、御影は井戸の側に来ていた。部屋では誰かが訪ねてくるかもしれない。屋敷の外では梓が心配するだろう。

 御影は流れる水の音に耳を傾けながら、立ち尽くしていた。水の音は耳に心地よく、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。しかし、それも気休め程度だった。

 何度も本当のことを確かめようと思った。しかし、その度に足がすくんだ。もう何度、それを繰り返しただろう。

 御影は井戸の底を覗き込んだ。深い闇が穴一杯に満ちている。桶を降ろせば掬い上げられそうだ。

 夜の闇のような、庵の闇のような、そんな闇。以前ほど恐ろしくなくなった、それ。

 御影はじぃっと井戸の底を見つめ続けていた。


「……何をしている」


 低い声が聞こえた。振り返らずとも、誰だと分かった。


「何も、していない」


 相手を顧みることなく、御影は答える。黒耀がふん、と不愉快げに鼻を鳴らすのが聞こえた。


「……黒耀」


 闇から顔を上げ、御影は光を見る。麗らかな日差しはいかにも長閑で、不穏の影は見当たらなかった。


「この国から、神が消えるというのは……本当か」


 振り向き、正面から問いかけるだけの勇気はなかった。ただ言葉を紡ぐだけでも声が震え、足がすくみそうで怖い。

 しかし、御影は今まで自分が生きた平穏を信じ、抱き締めていた。虫の息のそれを庇うようにして守り、何を馬鹿げたことをという不愉快げな声を待っていた。


「……やはり、昨晩の妙な気配は貴様か」


 呟くように黒耀は言う。否定でも肯定でもない言葉。御影はじっと次の言葉を待った。沈黙が長く続いた。


「知りたいか」


 沈黙を破ったのは問いかけだった。否定でも、嘲りでもない言葉に御影は思わず振り向く。

 そこにいたのは鋭い牙を持った獣だ。その切っ先はまだ御影には向けられていない。その表情には決心と忠誠が滲んで見えた。


「ならば月が空の中心より傾いた頃、貴様がかつて在った社まで来い」


 話は終わりだとばかりに黒耀は踵を返す。御影は微動だにせず、その背中を見つめていた。

 その胸の中で、息絶えた平穏の骸を抱いていた。

お久しぶりです。本っ当にお久しぶりです。

更新をお待ちいただいていた読者様方、申し訳ありませんでした。

申し開きのほどは、活動報告にてさせていただきます。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

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