九、月下の陽炎
暗い微睡みの中で淡い光が射した。それに導かれるようにして、深い眠りの中にあった御影の意識は目覚めていく。無音の水の底から一筋の糸を辿るようにしてまぶたを開けると窓の外で青ざめた月が雲から顔を覗かせていた。まるで月に呼び覚まされたようだ。御影はその月をじっと見つめた。月と自分しか存在しないと錯覚させるような静けさが夜を支配していた。
静けさと温もりの中で御影はうとうとと再び眠りに着こうとする。静けさは揺り籠のように御影を包んでいた。しかし、それは突如として解けて消えた。
足音だった。二人分の足音が静寂に波紋を立てる。一つは慎重な、もう一つは気の立った、どちらも急いでいることは確かだった。
(何か、あったのか……?)
まだ朝日の気配すらない夜更けだ。御影はそっと身を起こし、布団から抜け出した。夜の空気は御影をその場に押し止めるように冷たく刺さる。しかし、御影は構わず部屋の外に出た。
廊下を進む足音を忍ばせたのは何となくだった。何もやましいことはない。何かを企んでいる訳でもない。だというのに、そうしなければならないという気がしてならなかった。それはきっと、御影自身が自分を彼らから見れば余所者だと自覚しているからだろう。それでも、そのことを目に見える形で突き付けられるのは怖かった。そうなれば今までの優しさですら信じられなくなりそうな気がした。
人の気配のする方へ歩を進め、足を止める。曲がり角だ。右に曲がった先にある部屋から微かな話し声がする。聞きなれた四つの声に、御影は自然と全ての神経をその声に注いでいた。
「こんな夜更けに文が来るとは、都も騒がしくなってきたなぁ」
聞き取れた梓の声は笑っていた。しかし、その声はどこか冷たい。部屋の空気もぴりぴりと刺々しく感じられる。何かが起こっている、と理解するには十分だった。
「四季宮を失い、もはや朝廷に皇子を止められるものはいない。この国から八百万の神々が消えゆくのも、そう遠くないでしょう」
疾風の声はいつもに増して淡々としていた。もはや、それは言葉でなく音に近い。感情も何も感じられない音だった。
(神々が……消える?)
疾風の声音がその言葉を強調する。耳の奥にはっきりと残る。
自身が無知であると自覚する御影でもこれだけは知っていた。神とは万物に宿る存在だ。その存在はこの大地を支えている柱である。太陽と月が繰り返しめぐるのも、それぞれの神あってこそだ。
御影は生唾を呑みこんだ。何の冗談だ、と思う。この世界が壊れる話を彼らはしていた。
「今まで不干渉だった北方にまで手を伸ばし始めましたね」
緋衣の声が事の深刻さを語っていた。そこに梓が忌々しげに吐き捨てる。
「あの若造が、調子づきおって」
低く唸るような言葉の後にため息が続く。
「冬原には負担をかけるな。しかも、此度の遠征は分家一つの手には負えん」
だんっ、と床板を何かが叩く音がした。板を破りかねないその衝撃は床伝いに御影の足元にもやって来る。その震源の主の怒りを感じるには十分だった。
「やはり、都へ戻るべきです!」
黒耀が声を荒げる。そして、矢継ぎ早に捲し立てた。
「このままでは奴の思うがまま、あの馬鹿げた命がまかり通ることとなりましょう! そうなればこの国は終わりです! 今こそ、四季宮の力が必要とされる時ではありませんか!」
黒耀の熱弁は耳を澄まさずともよく聞こえた。もし今、御影が眠りについていたとしてもきっと目を覚ましただろう。しかし、そんな熱気に冷水を被せるような言葉が放たれた。
「無理だ」
僅かな呆れを含ませた疾風の声がたった一言で黒耀の言葉を全て否定する。それから、反論の余地を挟む間もなく、その論拠を語り始めた。
「まず前にも行った通り、今上の君は何の理由もなく下した命を取り下げる方ではない。しかも、自分の思うがままに事を運ぶ妨げとなる主を今この時に呼び戻すとは到底思えん。もし仮に、無理に都へ戻ったとしても主のお立場は限りなく悪いだろう。春川様からの文によれば、“四季宮の当主が悪鬼を匿い、飼い慣らしている”と朝廷内ではもっぱらの噂だという」
「ふむ。やはり、あれでは誤魔化されんか」
わざとらしいほど生真面目な調子で梓は言う。そして、くすくすと笑い声を漏らした。
「しかし、悪鬼など匿ってはいないのだがな」
なあ、と同意を求めた声に応じたのは緋衣だった。優しい声が何の屈託も迷いもなく、はいと答える。
御影は何だか胸の奥がむず痒くなった。しかし、嫌な感情ではない。ただ、じっとしていられないような心地だ。暴れる心の熱を吐き出すように、御影は小さく静かなため息を吐いた。
「ですが、あの男の内にはまだ彼の鬼が潜んでいるように思えます」
頭から冷水を浴びせられた。心臓が一瞬止まった。
疾風が述べているのは彼から見た事実だ。しかし、御影は一転して胸の中が冷たくなっていくのを感じた。拒絶の言葉を聞いた訳でもない。だが、急に突き放されたような気がした。
「……やはり、あの男は危険です」
唸るように黒耀は言う。以前のような激しさはないが、その存在を認めないと言う意思は十分に感じられた。そのことが御影の心に追い討ちをかける。
「黒耀さん……」
緋衣の声は険しい。だが、黒耀の言葉を肯定する者もあった。
「黒耀の言っていることもあながち間違ってはいない。己の手中にない力は不安定で危うい。いつか、その意思に関わらず何かを壊すだろう」
「疾風さん……!」
そんなことはない、と言いたげな批難の声を緋衣は上げる。しかし、疾風は自身の言葉を撤回するようなことはしなかった。それが正しいことだと御影にも分かっていた。御影の両手には余るほどの優しさの中で忘れかけていた、意思だけでは太刀打ちできない現実だ。
御影はそっと、両手を自分の顔に伸ばした。恐らく、眉一つ動いていない無表情がそこにあるのだろう。御影にはそう感じられた。
だというのに、心はひどく寂しい。寂しくて、寒くて、温もりを求めている。肌寒い廊下に立ち尽くしたまま、御影は拳を握りしめていた。しかし、大して温かくなった。
「主」
「なんだ?」
疾風の呼び掛けにしばらく黙っていた梓が口を開く。その声色はまるで、狩人を翻弄したあの時のように笑っていた。
「あの男から、鬼を引き剥がすことは出来ないのですか?」
「ふむ。ようやく有意義な話が出来そうだな」
「え、あ、出来るのですか!?」
緋衣が驚きで声を裏返す。御影も声こそ押し止めたものの、驚きに目を見開いていた。そんな中、梓は口火を切る。
「可能か否か、と問われれば答えは五分だろう。とにかく鬼と奴の同化が激しい。……全く、何をどうすればああなるのやら」
梓が半ば感心したように話すのに背を向け、御影はそっと足音を忍ばせその場を後にした。その先を聞いて、平静を保っていられるとは到底思えなかった。
(俺、俺は……っ)
“御影”の名を得る前、名を問われれば“穢鬼”と名乗った。その事に何の疑いもなかった。
“穢鬼”は悪鬼だ。人の呪詛を聞き届ける禍つ神だ。しかし、それはもういない。穢鬼だった者が“御影”なのだ。
だが、そこから“穢鬼”が消えたら何が残るのだろう。“御影”はどうなってしまうのだろう。
禍つ神であることを望む訳ではない。だが御影は困惑せずにいられなかった。
(穢鬼でないなら、俺は……っ)
脳裏に浮かぶのは雨に打たれた、ずぶ濡れの痩せこけた男だ。薄汚れた彼は何かから逃げている。理由も分からず、恐怖に縛られたまま、逃げ惑う。
(俺は、何だ……?)
陽炎のように揺らぐ己の存在が不安で、訳もなく恐ろしくて、泣き出しそうな心地のまま、静かに部屋に戻った。
神々が消えるという。自分が自分でなくなるかもしれないのだという。どちらも世界が滅ぶ恐怖だった。
雲から完全に抜けた月は皓々と静寂を歌っていた。
第三章がやたら長く感じる……。悩んでる回数も尋常じゃない……。




