七、魅入られた者たち
昼餉を済ませた御影はある場所を目指し、山を歩いていた。しばらく歩き続ければ、その鳥居が姿を見せる。御影は目を細めた。
かつて、穢れの鬼が奉られていた社は木漏れ日の中で静かに佇んでいた。人の気配はなく、誰かが訪れた様子もない。主を失った社は侘しく、緩やかな死を彷彿とさせた。
御影は境内の外からかつての住まいを眺めていた。人間の情の薄さは今さら驚くことではなかった。御影は久方振りの来訪者として、境内に足を踏み入れた。
そこは庵の闇だけを知っていた御影にとって、ほとんど見たことのない景色だった。静かな森の穏やかな午後。麗らかな陽射しを受けた社は穢鬼の住み処とは思えないほど光に満ちていた。しかし、それと相反する常闇がすぐそこにあることを御影は知っていた。
御堂の扉は固く閉ざされていた。その隙間から光に焦がれる暗い眼差しが見えた気がした。
(お前も、望んだだけだったな)
渇望の眼差しへと御影は語りかける。
(生を望んだ。それだけだったな)
耳の奥に蘇る雨音。追っ手の怒声。雨にけぶった視界に映ったのは古びた社。追われる者は神にすがるようにして社の境内、一際大きな堂の扉に手をかけた。
(願いは、聞き届けられた)
恐らく、その扉が開かれた瞬間にそれは男の内に溶けたのだろう。そして、男は望みと引き換えに自由を失った。光である世界から外れた常闇の住人となった。闇の中で光に焦がれ、殺戮に怯え、何一つ出来ない己の無力さを呪った。
御影はそっと御堂へ歩みより、その扉に手をかける。古びたそれは今にも崩れ落ちそうなほど朽ちていた。扉も、蹴破ろうと思えば容易なほどだ。あの頃はびくともしなかったその姿が悲しかった。
扉が開け放たれる。中はがらんとしていて、長らく世界から忘れ去られたかのように古びていた。射し込む日の光が薄く塵の積もった床板を照らした。
(そして、解き放たれた)
狩人が開けた風穴から焦がれ続けた外界へと逃げ出した。そして、出会った。奇妙な、老獪な少女とその従者たちと。“御影”と。
(俺は、俺の意志は、あの場所を望んだ)
望んだその場所に名前を付けるとしたら、それはきっと“居場所”だろう。手放しがたいそれに御影はそっと微笑んだ。その温もりに今まで見失っていたものを思い出す。
(ああ、そうだったな)
慌ただしい日々の中、新たな出会いを繰り返す中でそれは埋もれていた。御影は苦い笑みを溢しながらそれを拾い上げる。
(俺が望んだのは“生きる”こと。もう誰も殺めず、生かされることなく、生きること)
誰かを傷付ければ、それは必ず返ってくる。呪詛を司る鬼は身に染みてそれを分かっていた。そして、人間は己を脅かす存在に容赦がないことも分かっていた。だからこそ望む。
もう誰も傷付けず、人間とも関わらずにいたい。あの屋敷での暮らしはその理想に近かった。黒耀とのことはあるが、それでもあの頃よりはずっといい。
そう思ったところで御影はふと思った。そして、小さく笑う。
(……梓は、人間だったな)
そのことを忘れさせる、人間とそうでないものの境界を感じさせない不思議な人間だ。
物言わぬものに意味を見出だし、趣を感じ、何も恐れず、どんな時も笑ってみせる。常に光を見つめ、何者にも屈しない。御影が知る人間とはまるで違う。そんな彼女に御影はいつの間にか魅入られていた。
「ああ……」
思わず呟く。これがそうだったのかと思う。
いつか、緋衣が言っていた。自分達は何に縛られるでもなく、ただ梓に惹かれて彼女の下にいるのだ、と。その言葉の意味が今、分かった気がした。そして思う。黒耀もそうして梓に忠誠を誓ったのだろうか、と。
(俺は、何も知らない……)
この国の姿も、四季宮家のことも、梓のことも、疾風に緋衣、黒耀のことも知らない。
御影はそっと拳を握った。
(知りたい)
この国の姿を、四季宮の名の意味を、梓の光の源を。疾風が野山を重んじる理由、緋衣の優しさの理由、そして黒耀が自分を認めない理由を知りたいと思った。やはり、疾風の言うように緋衣の説教が効いたようだ。
(話を……)
してみろ、と勧められたが果たして聞く耳を持ってもらえるのだろうか。そもそも、何を話せばいいのだろうか。御影の思考をそんな疑問が満たしていく。その時、背後に人の気配が立った。
「古巣が懐かしくなったか」
嘲るような声が聞こえた。振り向くと目を細めた黒耀が境内に立っている。その姿はこの社にいることすらも不快だと言いたげだった。しかし、こうして自ら話しかけているところを見るとまだ平常心を保っているように見える。御影は出来る限り、当たり障りのない答えを探した。
「あまり、ここを懐かしく思うほど知っているわけではない」
そう答えて、御影はふと空を見上げる。先程まで青く澄んでいたそれが、今では薄橙に染まっていた。それほどの時間がいつの間に過ぎたのだろうか。御影は思わずため息を吐いた。それから、視線の先を社に戻す。
夕日に照らされたその場所は初めて訪れた場所のようにも感じられた。茜と影の景色は美しく思えた。
「……そう言えば、何故お前がここにいる?」
思い出したような御影の問いかけに黒耀は苛立たしげに固く目を閉じる。
「梓様のご命令だ。いつまで経っても帰ってこない貴様を連れ戻せ、とな」
暗に不本意だと言っているのが聞こえた気がした。しかし、それでもこうして会話が成立するだけ進歩だろう。黒耀にも緋衣の説教は効いたらしい。
「手間をかけて、すまない」
そう言って御影はそっと御堂から離れた。すると黒耀は何とも言えない表情になる。まるで珍妙なものを目の当たりにしたような顔だ。
御影は小さく首をかしげた。
「どうした?」
御影の問いかけに答えようともせず、黒耀は踵を返した。その背中に御影は更に言葉を投じる。
「お前に聞きたいことがある」
黒耀は立ち止まらない。御影はその背中を追いながら続けた。
「疾風は、俺の死がお前に己の意味を残すと言った」
燃えながら落ちていく夕日に、黒く伸びた影を踏みながら御影は言う。すると、影の主の背中が少し遠くなった。
「お前は梓のために、梓の守り手であるために、俺を拒む」
負けじと御影は言葉を紡ぐ。知りたい、という思いが御影を急き立てるように胸の中で暴れていた。
「俺を拒み、己の意味を守った先のお前に何が残る?」
黒耀が足を止めた。釣られるようにして御影の足も止まる。夕日の中の黒い人影がまとう空気は抜き身の刃を思わせ、ひどく張り詰めていた。
「……俺は主人を守るために存在する。それ以外に俺が存在する意味も、場所も、ありはしない」
それ以上、言うべきは何もないといった様子で黒耀は再び歩き出した。しかし、ふと足を止め、言い加えるようにして口を開く。
「貴様が己を何者だと語ろうとも、貴様は血の匂いをまとった禍つ神だ。俺は、貴様の存在を決して許さん」
静かだが、強固な意思を感じさせる声音だった。そして、その背中が再び遠ざかっていく。御影はその姿を、足を止めたままでじっと見つめていた。
そこにあったのは悲しみでも悔しさでも怒りでもなく、得心だった。
(お前も、俺と同じものを欲していたのか)
それを口に出したりはしない。わざわざ逆鱗に触れる必要などない。しかし、そう思わずにはいられなかった。再び、緋衣の言葉の意味を理解した。自分と黒耀が似ているという言葉が何を見抜いていたのかを思い知った。
(似ていても、過去は別のもの。だが……)
似通った痛みを知っている。同じ存在に救われ、魅入られた。
(俺と黒耀は、同じものを求めている。同じように、己の存在が許された場所を……)
御影は歩き出した。黒耀の姿は落陽の中で揺れていた。
誰だー、週一更新とか言ったヤツはー。
いつだー、最後の更新はー。
……読者の皆様、非常に申し訳ございません……! こんな月神でも一生懸命生きてます。書いてます。これからもどうか温かく見守ってくださいっ。
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