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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第三章 己の在るべき場所
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六、輪郭




 緋衣(ひい)の元へ行くのは何となくばつが悪い気がした。先程のあの怒声と表情を思い出すと足が重くなる。しかし、行かない訳にはいかない。何故なら、釣った魚を緋衣の元へ届けるようにと疾風(はやて)から言われているのだ。当の疾風は屋敷へ戻った途端、ふらりとどこかへ消えてしまい、届ける他にどうしようもない。

 御影(みかげ)は意を決して勝手場へ足を向けた。


 近付くにつれて、食欲をそそる香りが漂ってくる。どうやら緋衣は昼餉の仕度をしているらしい。耳を澄ますと風が鳴るような音が聞こえた。

 中を覗き込むと緋衣は(かまど)の中の火を竹の筒で吹いていた。しかし、なかなか思ったような火力にはならないらしい。疲れたように息を吐き、物憂げに竈の火を見つめていた。御影は戸口の陰で小さく深呼吸をすると勝手場に足を踏み入る。


「……手伝おうか」


 もごもごと歯切れが悪いながらも、そう申し出ると、今の今まで御影に気付いていなかったらしい緋衣は目を見開いて驚いた。しかし、すぐにいつものような微笑を浮かべて頷いた。


「よろしいですか、お願いしても」


「ああ」


 そう答えながら、いつもと変わらない対応に内心ほっと安堵する。そして、立ち上がった緋衣に魚籠(びく)を手渡した。


(ふな)が五匹だ」


「今日は釣れましたか?」


 魚籠を手に、にこやかに訊ねてくる緋衣に御影は頷いた。


「一匹だけだが」


「それは、よかったですね」


 水を張ったたらいの中に魚籠の中の魚を移しながら緋衣は目を細めて微笑む。魚たちは突然天地が引っくり返ったことに驚いた様子を見せたものの、以前よりずっと広い水の中で悠々と泳ぎ出した。


「これは今日の夕餉にいただきましょう」


 楽しげに言う緋衣に御影は曖昧に頷き、竈の前にしゃがみこんだ。それから、側に置いてあった竹筒に手を伸ばし、竈の火にふうっと息を吹きかける。しかし、炎は一瞬揺らいだだけでその大きさは変わらなかった。おかしいな、と御影は首をかしげる。


「難しいですよねぇ」


「む……」


 緋衣が困ったように笑う中、御影は眉間にしわを寄せ、思い切り息を吸うと再び吹きかける。しかし、やはり炎は揺らぐだけだった。

 隣で青菜を切る緋衣は苦笑を浮かべたまま、ぽつりと呟く。


「こういう時だけは人間の姿が少し不便ですね」


「元の姿なら、容易なのか?」


 何の気なしに聞いたつもりだった。しかし、その瞬間小気味よく続いていた包丁の音が途切れる。見上げれば、緋衣の表情は固く強ばっていた。その表情に御影は何を言えばいいのか分からなくなる。降りてきた沈黙が息苦しい。

 その時。まるで、狙いすましたかのように竈にかけられた鍋が吹き零れた。


「あ……っ」


 弾かれたように顔を上げ、緋衣は鍋の中に差し水を加える。気まずさに吹いた竹筒は炎を大きく燃え上がらせた。


「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」


 緋衣の言葉に御影は無言のまま、立ち上がった。

 黙っていては何も伝わらない。相手も、何も分からない。それを知ると同時に、御影は思い出したことがある。それは言の葉は刃にもなり得るということだ。御影はそのことを最奥の記憶の中で感じた。社の主として目の当たりにした。実際に突き刺されたこともある。だからこそ、口をつぐんだ。

 沈黙が耳に痛かった。御影は鍋が煮える様をじっと見つめていた。


「……屯食(とんじき)、美味かった」


 その空気を誤魔化すように御影は口を開く。しかし、誤魔化しにしてはあまりにお粗末だと御影自身が一番よく分かっていた。だが、口火を切ったからには後に退くことは出来ない。


「ありがとう」


 そう言ってちらりと緋衣を見ると、彼女は優しく微笑んでいた。なんだか面映ゆい。


「昔はよく、姫様にも同じことをしたものです」


「梓にも?」


 何となく興味と気恥ずかしさを誤魔化そうと聞き返すと緋衣は懐かしそうに目を細めて頷いた。


「悪戯をして、(しょう)様……。先代の当主様に叱られて、夕餉をお預けにされた時は、私がこっそり屯食を差し入れていたんですよ」


 後で、気付かれてしまって私も叱られました。と言い加えながら、緋衣は笑う。その表情は優しく、温かく、どこか寂しげだった。

 しかし、それはすぐに鳴りを潜め、黒い瞳が御影に向けられる。


「ところで、御影さんは(なます)を召し上がったことはありますか?」


 唐突な問いかけに御影はふるふると首を横に振った。聞いたことすらなく、その姿は想像もつかない。


「今日は分家の方から食材が届いて、その中に山葵(わさび)とのびるがありましたので、先程の鮒を膾にしていただこうと思ったのですが……」


 緋衣は言葉尻を濁すと小首をかしげた。


「生の魚は平気ですか?」


「平気だ。……多分」


 実際のところは食べたことがないので何とも言えなかったが、出されれば食べるのが御影の食生活の基本だ。

 御影は未知の料理、膾を頭に思い浮かべながら訊ねた。


「食材は分家から届いていたのか」


 正直、今まで五人分の食事をどう賄っているのか前々から気になっていたが、やはりその疑問も胸中に押し止めたままにしていた。

 緋衣は微笑を浮かべて頷いた。


「ええ。食材以外にも各地の様子などが届きます」


「春川、という家だけで何とかなるのか?」


 以前、話題に出た分家の名前を思い出し、御影は首をかしげる。この国がどこまで広いかは知らないが、自分が知るそれよりずっと広いはずだ。それを一つの家が把握することなど出来るのだろうか。

 そんな御影の問いかけに緋衣は首を横に振った。


「春川家は、四季宮(しきみや)家の分家の一つなんです。四季宮家には四つの分家があって、その家々が情報収集をしたり、食材を届けたりしてくれているのです」


「そうか」


 新たに得た知識を頭の中で咀嚼(そしゃく)しながら、御影はぼんやりとこの国の形を思い描いてみようとした。が、すぐに頓挫した。自分がいる場所は国のどこに位置するのか、都はどこなのか。それすら知らない御影の想像では輪郭すらはっきりと見えてこない。まるで、深く濃い霧の中に国があるようだ。

 御影が視線を伏せたまま黙り込むと緋衣もしばらく口を閉ざしていた。鍋の煮える音だけが静寂を打ち消している。そんな中、緋衣がそっと口を開いた。


「……黒耀(こくよう)さんと話してみてはどうですか?」


 その言葉に御影は驚きと戸惑いの眼差しを緋衣に向けた。しかし、緋衣は微笑を浮かべたまま続ける。


「黒耀さんも、このまま気不味い思いをしているのは望んでいないと思います。二人とも言葉が足りていなかった分、きちんと話をするべきだと思いますよ?」


「……しかし、黒耀にとって俺はどうあっても許しがたい存在だろう」


 うつ向く御影に緋衣は大丈夫ですよ、と目を細める。


「あなた方はよく似ていますから。根本はきっと同じ思いを持っているはずですよ」


 にこりと笑った緋衣に御影は何も言えず、口を閉ざした。

 やはり、彼と自分は似ているのだろうか。そう思うと疾風の忠告にも似た言葉が蘇る。

 今の御影には自分の輪郭すらも見えなかった。

週一更新はどうしたー、と自分に言ってやりたい遅刻更新です。

ちなみになますは今でいう刺身的な。ただし、醤油はありませんけどね。

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