表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第三章 己の在るべき場所
32/37

五、能動




 二日弱何も食べていないのに、何故か御影(みかげ)は空腹を感じずにいた。今はただ縁側に腰掛け、ぼんやりと宙を見つめている。

 静かだった。今日は緋衣(ひい)から手伝いを頼まれることもなく、梓は自分の部屋に隠り、黒耀(こくよう)疾風(はやて)はどこへ行ったか分からない。久々に持て余した時間を一人静かに過ごす。穏やかな風が心地よかった。


(御影、か……)


 心の中で与えられたその名を呟く。名を得てからの自分自身に起きた数多の変化を御影は不思議な心地で思い返していた。

 (まが)(かみ)悪鬼(あっき)とは違う、“御影”という意思が自らの足で立つようになり、今では自らの内に在るものを言の葉に変え、誰かに伝えることを知った。もはや、庵の中にいた頃とは別人のようだ。

 御影は深く息を吐いた。今もまだ胸が熱い。自分の想いに形を与える。それがこんなにも胸を熱くすることだとは思ってもみなかった。

 ここに来てから、御影の目には次々と見たことのないもの、触れたことのないものが現れ、御影に新たな変化を与えていく。その変化は今、御影の頬を撫でる風と同じように心地よかった。


「御影」


 聞き覚えのある呼び声が穏やかな静寂を破る。その声の主は庭先に立っていた。


「疾風」


「釣りに行く。付き合え」


 竿を肩に担ぎ、魚籠(びく)を手に下げた疾風は相変わらずの無表情で淡々と喋る。その姿は普段と変わりがないように見えたが、そうでないことを知っている御影はすぐにその申し出に応じることが出来なかった。


「……腕は、いいのか?」


「大したことはない」


 そう言って疾風は早々に踵を返した。その背中はついて来いと物語っているように見える。御影は小走りにその背中を追った。


 見覚えのある道を辿り、いつかの河原のいつかと同じ場所で釣糸を垂らす。その道すがら、そして今も二人の間に言葉はなかった。しかし、それは決して居心地の悪さを感じさせるものではない。本当に必要な言葉だけが流れるこの静けさを御影は存外気に入っていた。

 川のせせらぎだけが滞ることなく続いていた。そこに風のざわめきと森の囁き、小鳥の歌が重なる。川の水面を乱すものが何もないように、その音を乱すものは何もなかった。

 しかし、しばらくして聞きなれない音がくう、と鳴く。間近で聞こえたが、果たして何の音でどこから聞こえたのか分からない。御影は釣糸の先に注いでいた視線を上げ、きょろきょろと辺りを見渡した。そして、小さく首をかしげる。すると、疾風が横からすっと笹の葉の包みを差し出した。


「緋衣からだ」


 そう言って疾風は包みを受けとるよう促すように包みを御影に近付ける。御影はよく分からないまま、竿を置いて包みを受け取った。

 膝の上に置いて、そっと紐をほどく。そこには握り固めた米の塊が二つ並んでいた。再び、くうっと何かが鳴いた。


「これは?」


屯食(とんじき)だ。もう二日も何も食べていないのだから少しは食べないと身が持たんだろう、と緋衣がこしらえた」


 竿の先に目をやったまま、疾風は言う。御影は疾風の言葉に最後の食事はいつだったかと考える。恐らく、一昨日の朝餉が最後だ。

 しかし、やはり空腹は感じなかった。そのせいか、屯食に手が伸びない。そんな御影を横目にちらりと見て、疾風は口を開いた。


「食べたらどうだ。さっきからずっと腹の虫が鳴いている」


 その言葉で御影はようやく音の正体に気付いた。気付いてみると、何だか気恥ずかしい。その感情を誤魔化すかのように屯食に手を伸ばした。

 白く、丸いそれを両手でそっと持つ。香り立つ米の匂いに釣られるようにして、御影は一口目をかじった。ゆっくりと咀嚼(そしゃく)し、飲み込む。次からはのんびりしている余裕など吹き飛んで消えていた。がつがつと食らいつき、一つ目が胃袋の中に消える。二つ目を食らい尽くすのにさほど時間はかからなかった。

 どうやら、心が空腹を感じずとも体は餓えていたらしい。一心地ついて御影は満ち足りたため息を吐いた。


「……主には黙っておけよ」


 疾風が釘を刺す。御影は首を縦に振って答えた。そして、ふと口を開く。


「黒耀にも何か渡したのか?」


 その問いかけに疾風は静かに首を横に振った。


「奴は頑固だ。受け取ろうとしない」


「……そうか」


 その様は容易に想像できた。黒耀は腹が減ってはいないのだろうか、と思いながら御影は再び釣糸を垂らす。

 どちらも口を開こうとしなかった。舞い戻ってきた居心地のいい静寂の中で御影はすうっと目を細める。

 その時、御影の手の中の竿がびくんっと跳ねた。


「む……」


「かかったな」


 疾風の言葉に御影は以前のように力任せに引くのではなく、ゆっくりと引き寄せていく。水中の魚は激しくそれに抗っていた。まるで、その命が自らの手の中にあるかのような心地さえする。御影は躍動する命をじっくりと手繰りよせた。

 水面に波紋が立った。


「大物じゃないか」


 釣糸の先で身をしならせる魚は確かに大きかった。日の光を浴びて、その鱗と飛び散る水滴がきらきらと輝いている。


「……生きて、いるんだな」


 この躍動する命を食すために殺す。自分の命を繋ぐために、殺す。常に行われる命の連鎖は他の命を奪い、己の命を繋ぎ、他の命へと引き継がれていくのだろう。

 御影はそっと魚を魚籠に移した。


「疾風」


「何だ」


「黒耀は梓のために、俺を殺そうとしたな」


 疾風は口を閉ざしたままだったが、否定するような仕草などは一切しなかった。

 御影は魚籠に移された魚をじっと見つめた。この命は受け継がれていくだろう。誰かの血肉となり、連鎖の一部となるのだろう。しかし、もしあの時、自分が殺されてしまっていたらその命はどこにも行けない、と御影は思った。どこにも繋がらない、誰にも受け継がれない、ただ消え去りゆくだけの命。自分がそうだと思うと、深い孤独な闇に足元を(すく)われるような気がした。


「俺が殺されることで、何が残る? あの男は何を得る?」


 自らの命が誰かに繋がることを知ったからといって、死を受け入れることは出来ない。しかし、御影は知りたいと思った。あの男が何を手にするのか、己の死に如何程(いかほど)の意味があるのか、知りたいと思った。

 疾風はしばらく口をつぐんだまま、川面を見つめていた。その横顔は少し険しかった。


「……犬神は、主人となる人間を守護するように定められた存在だ」


 口火を切った疾風の竿が震える。疾風は慣れた様子で釣糸を手繰り、獲物を釣り上げた。


「しかし、奴はかつて人間の手を離れた。奴の力を御するだけの器を持つ者がいなかったからだ」


 釣糸が再び放たれる。


「人間は自分達の手に負えないものを許そうとしない。奴は人間のために生を受け、人間の手にかかろうとしていた」


 何となくだが、その先が見えた気がした。それと同時に御影の中での黒耀という存在が姿を変えた。決して理解することの出来ない、考えの交わることのない存在が、まるで自分と近い存在のように思えてきた。


「それを主が救った。以来、奴は主の守護獣であることに己の意味を見出だした」


 疾風は一度言葉を区切り、思い巡らすように沈黙した。そして、再び口を開く。


「お前の死は、奴に己の意味を残す。奴は己を己足らしめるものを得る」


 そう言って疾風は御影を見た。その眼差しは真っ直ぐ御影に注がれる。御影は目を反らすことなく、真っ向から向かい合った。


「……似ている、と思っただろう」


 己の心中を見抜いた言葉に御影は一瞬返事に詰まった。しかし、すぐに頷いてみせる。そうしなくても、山吹の瞳は全てを見抜いているようだった。


「どう思おうと、それは俺が口を出すことではない。だが……」


 淡々と疾風はいう。御影は静かに耳を傾けていた。


「奴の過去は、奴にしか解することの出来んものだ。お前のそれと似通っていても、全くの別物だ。それだけは覚えておけ」


 疾風の声音はいつもと同じように淡々としているようで、どこか真剣みを帯びていた。そのせいか、その言葉は胸の奥に落ちて確たる存在感をまとっている。御影は一つ頷くと、


「分かった」


 と答えた。すると疾風は再び視線の先を水面の一点に集中させる。しかし、不意に何かを思い出したかのように口を開いた。


「……余程、緋衣の説教が効いたらしいな」


「そうなのか?」


 釈然とせず、御影は首をかしげる。疾風は川面を見つめたまま頷いた。心なしか、その表情は柔らかかった。


「お前は今まで、自ら進んで他を知ろうとはしなかっただろう」


 そう言われ、御影はかつての自分を顧みた。思い浮かんだのは疑問を心に押し止めたままにする姿や、必要に迫られない限り口を閉ざしたままでいる姿だった。


(俺の言葉は、届くと知らなかった)


 だからこそ、口を閉ざした。きっと、今の自分は少し贅沢を覚えたのだと思う。自分の想いを重ねた言葉を届けることが出来ると気付き、それにためらわなくなった。そんな贅沢に溺れている。


「……後で、緋衣に礼を言いに行こうと思う」


「それがいい」


 同意を口にした疾風の竿が再び震えた。

マイペースが二人、再び。

作者的にはこの二人を書いていると和みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ