四、言の葉
朝の床板はひんやりと冷たく、直に触れ続けていると感覚が段々と鈍くなっていく。終いには寒いのだろう、という認識しか残らなかった。
御影、並びに黒耀は朝餉の間の中央で正座での不動を課されていた。双方、宣告を待つ罪人のように押し黙り、その前方ではいつものように上座に座る梓と側に控える緋衣がいる。そして、今日は疾風も上座の側に控えていた。
「さて。私は早いところ朝餉にありつきたい。よって、早々に済ませてしまおう」
少しばかり息苦しい空気の中、かなり場違いな軽薄な調子で梓が口火を切った。その視線は側に控える疾風に向けられる。
「まず疾風。一昨日、お前は何を見た」
主人からの問いかけに疾風は浅く頭を垂れ、「は」と応じた。
「私が客人に追い付いた時、すでにこの二人は爪を交えた後でした。客人は我を失い、黒耀はひどく気が立ち、互いに負傷していました」
「つまり、殴り合いの喧嘩をしたという訳だな」
ふむふむと頷く梓の目には面白がるような色が見てとれた。その側で緋衣が深く、深くため息を吐く。もはや、その呆れがどこに向けられているのかは分からなかった。
「で、仲裁に入ったお前も手傷を負ったと」
梓の言葉に疾風は無言のまま頷く。その様子に御影は目を見開いてその姿を見つめた。疾風の様子からはそれらしい違和感は見てとれなかった。外見も動作も、いつもと何ら変わりない。
困惑しながら御影が視線を注ぐ中、疾風は平然とした様子で袖を捲った。
「我を失い、錯乱した様子の客人に止めを刺そうとした黒耀を止めに入った際に」
淡々とした言葉とは対照的に、その傷は痛々しかった。包帯も何もない腕からは生々しい肉が覗いて見える。まだ、微かに血が滲んでいた。
疾風も人ならざる者だ。傷の癒える速さは人間よりずっと速い。それでもまだ、癒えきらないあの傷はずいぶん深い傷だったはずだ。御影は唇を噛み、視線を落とした。自分の意思の力が及ばないという無力感がその双肩に重くのし掛かる。
いくら己の内から見つけ出した己の意思と言えど、更に奥、骨の髄から魂にまで染み込んだ穢鬼の本能には逆らえない。やはり、禍つ神は血と争いを呼び寄せ、禍を招くのだ。
そう思うと途端に悔しくなった。何もかもがままならぬこの生が泣き出したいほどに悔しく思えた。叫びを上げ、この無情な定めに刃を向けようとさえ思えた。しかし、その思いは胸の内で激しくうねり、のたうち回るだけで、次第に収まる。そんなことは初めから分かっていただろう。そう、誰かに囁かれた気がした。
「……姫様、よろしいでしょうか」
不意に、沈黙を守っていた緋衣が口を開いた。その言葉は部屋の空気を少し凍えさせたように思えた。
「……ああ」
その申し出に答え、梓はにやりと笑う。何かを予感させるその笑みに御影は内心首をかしげた。
緋衣が少しだけ前に出た。その途端、黒耀が微かに身を強ばらせる。次の瞬間、緋衣はすうっと目を細め、言い放った。
「いい加減になさい!」
びりびりと宙を震わせるその一喝に大の男が二人、肩を跳ねさせた。それだけの気迫が今の彼女にはあった。まるで、轟く雷のような凄まじさを感じさせた。
「黒耀さん!」
迸るような声と共に鋭い眼光が黒耀に向けられる。
「何故っ、そこまでしてっ、いつまでもっ、小さなことに拘るのですっ!? あなたは姫様の御意に従えないのですか!?」
「いや、だから……!」
「黙らっしゃいっ!」
たじろぐ黒耀を再び一喝し、反論の余地も許さない緋衣の表情からはいつものような穏やかな微笑は消え去り、額に青筋が立ちかねないほどの怒りがたぎっていた。そして、怒濤の勢いで捲し立てる。
「あなたはいつもそうです! 少しでも障りのあるものにはすぐに目くじらを立てて吠え続けて! 姫様の御為とはいえ度が過ぎるのです! 過ぎたるは及ばざるが如しと何度言えば覚えるのですか!? 十四文字、たった十四文字ですよ! それをいつまで経っても一つとして覚えないで……っ! まだ里村にいる犬の方が賢いのではないかと私は日々思うのですが、どうでしょうねっ!?」
ぐうの音もでない、といった様子で黒耀は押し黙る。もし、ここで言い返そうものなら倍の言葉が返って来るのは誰の目にも明らかだった。何より、その燃え盛る炎にも似た怒気には誰も敵わないだろう。
すると、今度はその矛先が御影に向けられた。
「御影さん!」
真正面から向けられた怒りに御影の肩は思わず跳ね上がった。
「あなたはいつまで後ろを向いているつもりなのですか!?」
その一撃は目には見えない鈍器となって、御影の頭を思いきり殴りつけた。激しい衝撃にぐわんぐわんと視界が揺れる。しかし、今の緋衣は手加減などしなかった。
「いつまでも“穢鬼”という名の己に囚われ、過去ばかりに目を向けて! 確かにあなたは禍つ神だったけれど、今は違うでしょう! 今のあなたの名は“御影”でしょう!? この地に在った悪鬼はもういないのでしょう!? だというのに、いつまでも過去の影ばかり見ているから黒耀さんも調子づくのです! 堂々となさい! 胸を張りなさい!」
次々と打ち込まれる打撃に御影はただ耐えた。耐えながら、言葉の意味を一つ一つ考え、そして気付いた。
緋衣の鋭く細められた瞳は怒りに染まっているが、その奥には一欠片の悲しみがあるようだった。それがどこから来るものなのか、御影には分からない。しかし、言葉の一つ一つがその悲しみの在処から放たれている気がした。
「そもそもあなた達は互いに言葉が足りないのです!」
そう言って緋衣は二人を一瞥する。
「黒耀さんは何でもかんでも直感的で、決めつけが激しい! 人の話を聞かない! ……何度目です、この指摘はっ!?」
黒耀は口を一文字に結んだまま、苦しげに表情を歪めた。緋衣は間を置かず、矢継ぎ早に畳み掛ける。
「御影さんはみんな胸にしまい込むのを止めなさい! 思ったことを少しは口に出して言いなさい! 黙ったままでは何も伝わらないのですよ!?」
止めの一撃に御影の体は硬直した。しかし、その一撃は御影の胸に小さな、けれども強い光を放つ灯火を宿す。御影はその熱にそっと問いかけた。
(口にすれば、伝わるのか……?)
暗い庵の中で、その言葉はどこにも届かなかった。社から解き放たれ、梓と出会い、初めて自分の言葉もどこかへ届くことを知った。しかし、それでも穢れの鬼の影が御影の言葉を閉じ込めようとする。
(俺の言葉は、誰かに届くのか……?)
胸の灯火は炎となり、穢れの鬼の影を焼いていく。もう遮るものは何もなかった。
「俺は、生きていたい」
何処かへ届けという祈りにも似た気持ちを重ね、御影は口を開く。
「穢鬼ではなく、只の人として、生きていたい。自分の意志で何をするか選び取りたい。……ここにいたい」
自らの内に在るものを言の葉に変えて、自らの外へ送り出すということは御影にとって大変なことだった。己の内に在るもの逹は混沌と混ざり合い、次々に色は移ろい、姿を変える。しかし、それでも御影は立ち止まらなかった。拙くとも、胸に宿った炎の熱に導かれるまま、言葉を紡いだ。
「俺は、確かに禍つ神だった。だが、誰かを殺めたいと望んだことはない。禍を招き寄せることも望まない。もう誰も、傷付けたくない。俺自身に誰かを苦しめようという意思は、ない」
気付けば、広間は水を打ったように静まり返っていた。先程まで怒り心頭だった緋衣も、神妙な面持ちで御影を見つめている。疾風は静かな眼差しを御影に向けていた。黒耀は視線を伏せたまま、沈黙を守っている。
「……俺は、生きていたかった。それだけだった」
締め括るように言い加えて、御影は口を閉ざした。誰も口を開こうとせず、沈黙が降りる。届いたのだろうか、という不安に御影は知らぬ間に拳を握っていた。
すると、傍観に徹していた梓がついに口を開いた。
「……そろそろいいだろう」
梓の言葉に緋衣はすっと静かに身を引く。梓は真剣な表情で御影と黒耀を見据えた。
「此度の騒動。お前逹には罰を与えなければならん」
重々しいその声色に御影は身を強ばらせた。隣で、黒耀が息を飲む音が聞こえた。
「お前逹を……」
そこまで告げて、梓はにやりと口角を吊り上げた。
「朝餉抜きの刑に処す!」
高らかな宣言に緋衣の深いため息の音が重なった。
スランプ明けの更新です。まだちょっとぎこちないかもしれませんが、そこはご容赦を。
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