三、赤い花
一応、流血注意報!
病人の呻く声と死者の沈黙が渦巻くその場所はじめじめと湿った空気が漂っていてひどく息苦しい。まるで、濁り澱んだ空気だけがそこに居座っているようで、清浄な空気を求める体はすぐに息切れを起こしてしまう。
御影は浅い呼吸を繰り返しながらその場所を歩いていた。体は全身に鉛の重石をくくりつけられたように重い。じっとりと染み出る汗に不快感が増す。それでも御影は歩みを止めなかった。
(ここは……)
理由もなく歩き続けるその場所は全てが色褪せて見える。しかし、そこは何故かとても懐かしかった。
今にも崩れそうなあばら屋が立ち並び、その中からは絶えず、苦しげな呻き声が続いていた。道の端に寄せられた薄汚れた骸には蛆が集り、異臭を放っている。その傍らには虚ろな目が並び、いずれ己も物言わぬ肉塊となるのを待っていた。
こんな絶望に満ちた場所だというのに、嘆きや悲しみの声は聞こえない。誰も彼も、死者ですらも、その吐息に諦めを重ねていた。希望など自分達には縁遠いのだと諦観していた。
しばらく歩くと目の前に赤い花が咲き誇っていた。その花の中心で幼子が一人、腸を晒し、虚ろな目を空に向けている。全てが色褪せたその場所で、赤い色だけが禍々しいほど色鮮やかだった。
誰も、何も言わなかった。ただ諦めの吐息が深くなる。赤を纏い、冷たくなった幼子に差し伸べられる手はなかった。
御影の頬を温かいものが伝っていた。
(お前は、何をしたんだ?)
そう心の内で問いかけながら花弁を踏む。そして、幼子の側で膝を着いた。その目には澱んだ空が映っていた。
(生まれてきただけだろう)
手を伸ばし、その頬に触れる。血が通っていたのが嘘のように冷たい。御影は自分の温もりを分け与えるかのように小さな骸を掻き抱いた。
(生まれただけで、許されないというのか……)
ぽたぽた、と色のない滴が赤の中に落ちていく。それに呼応するかのように空も滴を落とした。
(存在しては、いけないのか……!)
赤の中に落ちていく滴が御影のものなのか、空のものなのかは最早分からなくなっていた。ただ打ち付ける雨音に紛れて小さな嗚咽が続いていた。
頬を拭う何かがあった。
柔らかなものが、頬を撫でていく感覚が奈落に落ちていた御影の意識を呼び覚ましていく。
側に人の気配があった。二人分の気配がある。その正体を確かめようと、御影はまぶたを押し開けた。
「……御影さん? 気が付きましたか?」
初めに目に移ったのは緋衣だった。心配そうに眉を寄せ、御影の様子をうかがっている。御影はしばらくその顔を見つめていた。いくつもの疑問が浮かんでは消える。ようやく口から出た問いかけは至極単純なものだった。
「ここは……?」
「お前の部屋だ」
緋衣に代わって答えた声に、御影は身を起こそうとする。しかし、右肩に走った痛みにすぐ倒れてしまった。緋衣の手を借り、何とか起き上がる。そして、二人目をその目に捉えた。
「あれから、お前は丸一日寝込んでいた」
「あれから……? それに、丸一日……?」
疾風の言葉に御影は更に疑問を重ねる。目が覚めるまでの記憶がひどく曖昧だった。気付けば日付が変わっていたなんて、まるで実感がない。
「覚えていらっしゃらないのですか?」
緋衣の問いかけに御影は頷いた。思い出そうとすると何故だか怖くなる。右肩の傷が疼くような感じがした。そっと手を当てると微かに熱を持っていた。
(この傷は……)
刹那、断片的に何かの光景が駆け巡る。
疾走する黒い獣。振りかざされる爪。殺意に満ちた咆哮。そして、真っ赤に塗り潰された視界。
欠片が繋がり、御影に思い出させる。過ぎ去った昨日、何があったのか。何をしてしまったのか。
「……黒耀、は」
絞り出した声は微かに震えていた。
「黒耀は、無事か……?」
二人の顔を見ることはできなかった。もし、自分が取り返しのつかないことをしてしまっていたらと思うと、それを告げる二人の表情を見るのがどうしても怖かった。
「……無傷ではないが、奴は頑丈だ」
淡々と、いつもと変わらない様子で疾風が答える。しかし、無傷ではないという言葉が引っ掛かっていた。
「御影さん。大丈夫ですよ」
緋衣の声は柔らかく、子供を宥めるかのように優しい。
「黒耀さんの怪我はあと二、三日で治りますから。だから安心して、御影さんもしっかり休んで下さいね」
そう言って緋衣はすっと立ち上がった。
「御影さんが気が付いたこと、姫様に知らせてきます。疾風さん、後はお願いします」
「ああ」
疾風が頷くと緋衣は静かに部屋を出て行った。
御影はぼんやりと宙を見つめる。脳裏に浮かんだのはいつか見た黒白の夢の景色だった。あれが遠くない未来、現実となるのではないだろうかという恐怖がじわじわと這い寄ってくる。
「……うなされていたが」
物思いに耽る御影に対し、沈黙を守っていた疾風が口を開いた。
「夢でも見ていたのか」
「……ああ」
疾風に視線を向けることなく、御影は答える。黒白の夢も、あの懐かしい夢も、不思議とはっきり覚えていた。それらは目覚めてもぼやけてしまうことがない。
御影は瞑目した。あの懐かしい夢を思い返す。そこには息が詰まるような郷愁と受け入れることしかできない理不尽がある。まるで、絶望に姿を与えたかのような場所だった。
「……疾風」
「なんだ」
「生まれたことすら咎められる存在はあるのだろうか」
何もない腕の中を見下ろしながら御影は問いかける。
「……野山の命ならば、そのようなことはないだろう。ただ、人の世は難解だ」
「そうか」
淡々と答える声に御影は一言呟いて、小さく息を吐いた。
人の世から弾かれながら、未だ人の世に縛られている。それが生きるための足掛かりとなるのか、枷となるのかは分からなかったが、まだ夢の余韻を引きずっているのか、少し息が苦しくなった。
「……もう直に暗くなる。休め」
疾風からそう言われ、始めて外を見た。
夕焼けに染まった空は赤い花を彷彿とさせた。
スランプやっほい! の月神です。書いても書いても納得できません……。
この話も、下書き原稿から大幅修正しております。もはや別物。
このスランプから抜け出すまで、遅速更新が続くと思われますが何卒ご容赦下さい。




