二、狩人
ちょっと流血表現かもしれない……。
いや、すっごく微々たるものだとは思うのですが。一応警告です。
その後、雨は四日間降り続き、五日目にしてようやく厚い雲の切れ間から陽が射した。
麗らかな陽光が扉の隙間から辛うじて射し込む。男は堂の壁に気だるくもたれ掛かり、影の中からその光を見つめていた。
あれから、予想通り老婆がやって来て幾重にも礼を述べていた。それから、また穢れの鬼に呪詛を聞き届けさせようと社を訪れる者もあった。この社を訪れるのはそういった人間だけだ。普段はこの場所を畏れ、忌み、近寄ろうともしない。必要な時に訪れ、都合よく神に祈る。
生かされている、と男は思った。呪詛を聞き届けさせるための道具としてこの社に封じられ、自由を奪われ、人間のために生かされている。
生きたい、と男は思った。生かされている限り、生も死も己の手の中にはない。その全てを生かしている者たちが握っている。それと死にはどれ程の差異があるのだろうか。
男は扉の隙間を見つめた。今日も一日、自らの手には何も持たず、ここで呼吸をするのだろう。そう思って目を閉じた。今日も社の周囲は静寂が漂い、ふらりと人間がやって来るのだろう。
しかし、男の予想は覆された。
それを捉えた瞬間、男ははっと目を開く。人間の気配だった。しかも、十人以上はいる。その上、今まで感じたことのない妙な気配をまとっていた。人間とも獣とも言えない、何か得体の知れないもののような気配だ。
男は首筋に走る焦げ付くような違和感に立ち上がった。今までの来訪者とは異なる何かに胸が細波立つようにざわめく。男はそれを落ち着けようと努めながら耳を澄ませた。
しばらくして、微かに聴こえてきたのは足音だった。男が感じた通り、二人や三人ではなく、十五人前後の足音と蹄の音に加え、獣臭さも漂ってくる。にも関わらず、話し声は一切しなかった。
一団の気配と足音は社の前で止まった。その瞬間、男はすさまじい既視感に襲われる。どくどくと早鐘のように脈打つ鼓動に息が苦しくなる。頭の奥が軋むような感覚が男の思考を満たしていく。
その時、がたん、と扉が揺れた。男はひゅっと息を呑む。反射的に身が強ばった。この出口のない庵に風穴が開くことを望んでいたはずなのに、何故だかそれが救いの手だとは思えなかった。既視感ばかりが強くなっていく。扉が開け放たれ、一斉に眩い光が差し込んだ瞬間、男の脳裏を最奥の記憶が駆け抜けた。
男は床を蹴った。一足で堂を飛び出て、社の境内に躍り出る。そこには同じ白装束の男たちが数十人、驚愕の表情で社の主を見つめながら、取り囲んでいた。それから、手にした錫杖を構え、険しい表情で男を見据える。その目に既視感の理由が氷解した。
男は再び地を蹴り、跳躍した。人垣を越えるのはどうということでもない。逃げなければ。その想いだけが男を突き動かした。
「逃げたぞ! 犬神を放て!」
背後で叫ぶ声が嫌に大きく聴こえた。それは聴覚だけでなく、嗅覚も視覚も同じだ。音も匂いも色も、全てが鮮烈で、周囲の全てが眩しく、直視しがたい。まともに前方も見えない中、男はがむしゃらに走っていた。
それは最奥の記憶の再現のようだった。男は道なき道を駆け抜ける。何故、追われているのだろう、と考える暇もなかった。あの時もそうだ。そして、あの時も敵意と殺気をみなぎらせた追っ手がいた。今もそうだ。異なる点といえば、今が日中で晴れているということだろう。外界はまるで、闇に生きる穢れの鬼を拒むかのように光り輝いていた。
「追え! 逃がすな、必ず仕止めろ!」
追っ手の声もまた、穢れの鬼の存在を赦そうとしないものだった。
闇に生きることを強要され、光に拒まれ、穢れの鬼であることを強いた人間にその命を狙われる。世界は男に対してあまりに理不尽だった。その理不尽は姿を得て男に襲いかかる。
「くぅ……!?」
肉を引きちぎられるような痛みが右足の腿に走り、血の匂いがした。思わず足が止まる。その瞬間、男は取り囲まれた。
獣の臭いが鼻を突き、敵意と殺意が肌を焦がす。獰猛に牙を剥いた獣たちはじりじりと輪を狭め、男を食い破る時を待っていた。
(……生きたい)
死を目の前に突き付けられながら、男は心の底からそう願った。その事だけを願いながら今まで生かされていた。男は周囲を見渡す。木々の深い茂みが影を作り、辛うじて見ることができた。
追っ手が自分を狩る狩人だとしたら、この獣たちは猟犬だ。男はそう思いながらその猟犬たちを見据える。岩の上に、茂みの中に、木陰の下に、肉体を持たない猟犬たちはいた。進路も退路もない。だとしたら血路を開く他ない。
男は地を蹴った。その刹那、猟犬たちも動く。その爪が、その牙が、男の肩に食い込み、腕を裂いた。しかし、男はそれらを振り払うように、迷いなく駆け抜ける。穢れの鬼と化した体はそれなりに頑丈なようだった。それに痛みを感じ、血が流れている内は生きていると言うことだ。男は足を止めることなく、走り続けた。
「凶悪な悪鬼とはいえ、手負いだ! 血の匂いを犬神に追わせろ!」
「こっちだ! 追い込め!」
声はしつこく追ってくる。男は肩を揺らし、荒い呼吸で走りながら思った。
(どうして、俺が狩られねばならない……っ)
穢れの鬼だからという理由で狩られるのなら、穢れの鬼を囲い、呪詛を与え、使役していた人間に罪はないのか。男の胸には様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、無力感、焦燥。そして、願望。生きたい、という願いが衝動となり、男を動かしていた。
どれほどの距離を走り、どれほど登っただろう。そう思い始めた男の視界が開けた。鬱蒼とした森を抜け、開けた場所に男は躍り出る。そこは不自然な場所だった。まるで、人の手が加えられ、わざと切り開かれた場所のように感じる。その地面には一本の草も生えず、綺麗な真円を描いているように見えた。
「掛かった!」
どこからか追っ手の勝ち誇ったような声が宣言のように響いた。その瞬間、男は自分が誘導されていたことに気付く。しまった、と再び走り出すより早く男の四方で呪文のような、妙な響きを持った言葉が流れ出し、その言葉は蛇のようにうねりながら男の意識を蝕んでいく。
(俺、は……、死ぬ、のか……?)
追っ手に捕らえられれば死。それは男の心に深く刻まれた真実だ。体の力が抜けていき、男は膝を付いた。そして、空を仰ぐ。薄れていく視界に映ったのは果てない青空だった。
(生きたい……)
何も見えなくなる。
(生き、たい……)
男は意識を闇に手放した。
今回も文章びっしりでごめんなさい……。
次からはもう少しましになる、はず! 穢鬼様のターンも終わる、はず!
ここまでお読みいただき、感謝です。