二、残像
残酷描写注意かもしれません!
呪詛に突き動かされていたあの頃は悲しいほど全てが鮮明に見えた。
紅い鮮血、光を失う黒い瞳、土気色に近付く肌。小さな檻に囚われながら、全ての色をまざまざと見せつけられていた。
しかし、今は違う。黒白の視界の中で御影の意識は散々に霧散していた。思考も成り立たない。何もかもが曖昧で、刹那的に思える。
(あれは……?)
黒と白しか存在しない景色の中に、真っ黒に塗りつぶされた人影が見えた。その存在に本能が警鐘を鳴らす。あれが何者かを声高らかに叫んでいた。
(……敵)
敵対する者。己の存在を拒む者。望む場所を奪う者。
対峙しなければならない。排除される前に排除しなければならない。この場所を明け渡してはならない。
殺さなければならない。それは何の疑いも抱かない、ごく当然の答えだった。そこに正しいか否かは存在しない。敵を排除するのは自明の理だ。
(殺すには)
力が必要だ。そう思った瞬間、ぐちゃ、と肉が歪む音がすぐ横で聞こえた。右腕がひくひくと痙攣を起こすように震えている。持ち上げてみると、そこには異形の腕があった。
人のそれよりずっと太く、肉が盛り上がっていて、血管の浮き出た、醜く禍々しい姿。指は五つの鉄の刃と化している。
試しに指を一本動かしてみると、それは思い描いた通り、元の腕と寸分違わず動かすことができた。
「貴様……! どうやら死に急ぎたいらしいなっ!」
敵が吠えた。その声もどこか遠く、歪んで聞こえる。そして、ぞわりと悪寒が御影の背中を撫でた。その気配が変容するのを感じる。荒々しい、獣の気配が黒い人影を包み込んだ。
その気配が構えを取り、身を低くする。それを御影は何をするでもなく見ていた。ただ、待っていた。
獣が地を蹴った。一足飛びに距離を詰める。しかし、御影はそれすらも見ているだけだった。目前に迫った敵が腕を振りかざす。そして、それは御影の肩に達した。弾けるような熱が右肩に生じる。その刹那、異形の腕が動く。
「ぐ……!」
苦悶の声を上げたのは敵だけだった。御影は眉一つ動かさず、じっとしている。その間、腕はその力を増していく。異形の爪が獣の腕に食い込んでいた。
獣の腕は微かに震えていた。それがどの感情から来るものなのか、御影は知らない。自分の感情すらも知らなかった。分かるのは敵を排除しなければならないということだけだ。
(このまま)
腕を砕いてしまおう。そう思った瞬間、予期せぬ衝撃が御影の腹部を襲った。突然のことに腕の力が緩み、一歩後退する。その隙を突き、敵はするりと御影から逃れ、距離を取った。
「悪鬼め……!」
負傷した左腕を庇いながら敵が悪態を吐く。御影はすっと敵の手が届いた右肩を見る。すると、そこからは黒く温かなものが流れていた。
(これは……?)
一体なんだっただろうか。この黒く、ぬめっとした温かなものは。考えても、白く塗りつぶされた思考はそんなものはどうでもいいと言う。
御影は改めて敵を見た。その敵愾心が潰えていないことを肌で感じた。
(殺そう)
一歩を踏み出す。もはや、何のためでもなかった。何故殺すのか、殺して何を得るのか。そんなところに意味はない。ただ殺す。敵だから殺す。それだけのことだった。
御影は一歩ずつ、歩み寄った。敵は身構えるも、やはり左腕の動きがぎこちない。その姿は誰かを彷彿とさせる。御影の足が止まった。
(……あれは、誰だ……?)
その面影には暗い影が落ちていて、よく見えなかった。彼は何かから逃げている。そこはひどく寒い。
「うおおぉぉおぉ!」
敵が咆哮した。そして、その雄叫びが響いている間に短い間合いを一瞬で詰め、腕が振り降ろされる。
御影は目を見開いた。脳裏の闇に浮かんだ面影が掻き消え、意識が今へと急浮上し、反射的に異形の腕が獣の腕に応戦する。異形の爪と何かがぶつかる甲高い音が奏でられた。しかし、御影の腕は妙に重かった。肩が熱く、思ったように力が入らない。ぴりぴりと何かが刺すような感覚がある。
(痛み……?)
その感覚に、御影の意識は再び彼に引き付けられた。
彼はぬかるんだ山道をよろけながら走っている。息が切れていた。今の御影の内に在る感覚が彼の全身を包んでいる。素足は動く度に息を止めたくなるような感覚に苛まれていた。
「はあぁっ!」
呼気と共に次の一撃が繰り出される。何もない左腕が御影の顔面めがけて放たれた。それは避ける間もなく、紙一重のところまで肉薄する。
しかし、次の瞬間。それは体ごと後方へ吹き飛ばされていた。
「……何をしている、お前たち」
背後に何かの気配が立った。顧みるとそこには人の姿が見える。鋭い眼差しで訝しげな様子の男だ。黒白の視界の中で髪が一筋、風に揺れていた。
(敵……?)
御影はその姿をじっと見つめる。何となくだが違うと思った。その面影に見覚えがある気がした。
「疾風、貴様……」
唸り声をあげながら獣が体を起こす。
「貴様、悪鬼のその姿を見てもなお、その存在を認めると言うのか!? その、おぞましい姿を目にしても!」
獣の吠える声に男は目を細めただけで沈黙を守っていた。御影はその姿、その名に肌が泡立つのを感じた。
視界が細波立って乱れる。誰かが手を差し伸べている光景が見えた気がした。実際に手が差し伸べられたわけではない。しかし、真っ暗な闇の中で幽鬼のように青白い手が差し出されるのを見た気がした。誘われるようにして、誰かがその手に薄汚れた手を重ねる。刹那、孤独と殺戮の光景が脳裏を駆け巡った。
「う、あ……っ!」
もう既にだらりと力なく投げ出された肢体を切り裂く光景。腸を裂き、心臓を抉り出す。まだ生暖かいそれを持ち主の外に打ち捨て、ただの肉片と化すまで切り刻む。まだ命ある人間の肢体を奪い、背中からその体を何度も、心臓から外れた場所を貫いた。その度に赤い血飛沫が飛び散り、絶叫と断末魔の叫びが木霊する。
御影はきつく目を閉じた。しかし、まぶたの裏は真っ赤に染まっている。胃の腑から何か苦いものがせり上がってくるのを感じた。
「うう……っ、あっ、が……!」
言葉の欠片たちが形を成すことなく、口から溢れ落ちた。未だに惨劇が脳裏を駆け巡っている。目を閉じていても開けていても、その視界は赤一色だった。もう何も見えない。耳に届くのは木霊する叫び声だけだ。
その時、何かの気配が駆けた。しかし、御影の目には何も映らない。ただ、鮮紅の中で深紅が跳躍したのが見えた気がした。
「……黒耀!」
響き続ける叫び声に割り込んで、険しい呼び声が御影の耳に届いた。その瞬間、真っ赤な視界が白い光に満たされていく。
光の中で、少女が一人微笑んでいた。白い手を差し出して、屈託なく笑っている。
(あ、ず……)
手を伸ばす。しかし、その手は宙を掴むだけで、御影の意識は奈落へと落ちていった。
……誰か、アクションシーンの臨場感の出し方を教えて下さい……。




