一、黒白
血の匂いがした。
閉じていた目を開けば色彩を失った世界が広がっている。どこまでも広がる空も、見慣れてきていた屋敷も色を失い、黒と白にしか見えない。
足元は黒だった。奇妙な光沢を持った黒が足元に広がり、動けば静かに波紋が広がる。見渡せば、足元だけではなかった。それは御影を中心にどこまでも広がり、庭を塗り潰している。そして、その中に溺れるようにして見覚えのある人影が三つ、横たわっていた。
自分が壊したのだ、と気付くまで然程時間はかからなかった。真っ黒に染まった両手を見下ろすと、足元の黒にその姿が映り込んでいるのが見える。
にやり、と黒い鏡像が嗤った。心底愉快そうに口元を歪め、御影を見つめている。お前がやったのか、と心の内で問いかけるとそれは首を横に振った。
「やったのはお前だ」
けたけたと笑う鏡像の声がひどく耳障りだった。
眠りの中から意識が急浮上して、御影は目を覚ますと同時に息を呑んだ。思い切り見開いた目に映るのは天井の木目だった。御影はそれをしばらくの間、まじまじと見つめる。それから、ふう、と安堵の息を吐いた。
(色が、ある……)
柔らかな色合いの薄茶色。見慣れ始めたその木肌はいつもと何ら変わらない。ただそれだけのことがひどく心強かった。宙へ伸ばした両手もいつもと同じ血色の悪い色をしている。夢だったと思った瞬間、体中の力が抜け、両手が崩れ落ちた。
御影は目を閉じ、耳を澄ませる。外からは風がそよぐ音と小鳥のさえずりが聴こえた。そこに遠くから、緋衣の小気味よい包丁の音が加わる。御影はしばし、その音に耳を傾けていた。しかし、耳の奥底にこびりついた鏡像の笑い声は消えない。
御影は目を開けると体を起こし、窓の外を見た。分厚い雲の過ぎ去った空は青く、庭の木々は青々と緑色の葉を繁らせている。昨日までと同じように鮮やかに色づいた世界は御影の気持ちを少し持ち上げた。
今日も“御影”としての、ここに在ることを望んだものとしての一日が始まるのだ。そう考えると悪夢の影が微かに薄らいだ。
朝餉をとる広間へ行くと黒耀が帰ってきた。御影は目を見開き、その姿を凝視する。円座に腰を降ろし、瞑目するその姿はまるで何事もなかったかのようだ。御影は思わず目を瞬く。
「お早うございます、御影さん」
不意に隣に立った声の主を見ると彼女はいつものようにふわりと微笑んでいた。御影は
「ああ」
と返事を返しながら黒耀と緋衣の間で視線を泳がせる。すると緋衣は御影の困惑に気付いたのか、曖昧な微笑を浮かべた。
「昨晩遅くに帰っていらっしゃいました」
「……そうか」
それ以上、何を言うでも思うでもなく、御影は席に着いた。黒耀が屋敷を飛び出した原因の一端は自分にもある。もし、それで帰ってこなかったら、と罪悪感にも似た何かを感じていたが、何事もないその姿にその感情は薄れていく。
「では! いただくとしよう」
そう言って梓が朝餉に手をつけるのと同時に御影の意識も目の前の膳に向いていた。すると、小皿に乗った色鮮やかな緑が目につく。浸し物に仕立てられたそれを口に運ぶと、瑞々しい歯応えと独特の風味が口の中に広がる。思わず口元に笑みが浮かんだ。
「お気に召しましたか?」
にこり、と緋衣が微笑む。御影は素直に頷いた。
「初めて食べたが、美味いな」
「それは嫁菜ですね。今朝、疾風さんが採ってきて下さったんです」
にこにこと楽しげな緋衣の表情に御影は隣に座る疾風を見る。黙々と食べ進める疾風の膳の小皿はすでに空だった。その横顔はどことなく機嫌が良いように見えなくもない。
しかし、一方で眉間のしわを深くしている人物がいた。
「むー……」
箸が嫁菜の少し上でぴたりと硬直している。一体どうしたのか、とその様子を見ていると目があった。その瞬間、彼女の目がぎらっと光った。
「御影! 私の分も……っ」
「姫様。好き嫌いはいけませんと何度も申し上げておりますよね?」
助けてくれ、と言わんばかりに口を開いた梓の言葉をきらきらと輝く、しかし有無を言わせない笑顔で緋衣が遮る。どうやら、何でも美味そうに食べる梓にしては珍しくこの嫁菜は苦手らしい。
緋衣に見守られ、嫁菜と無言の攻防を続ける梓を横目に、御影はそれを口に運んだ。食事に特別好みなどなく、腹が満たされればいいと思っていた御影にとって、それは初めて出来た好物だった。
朝餉を終えても黒耀は口を閉ざしたままだった。それどころか、茶も飲まずにどこかへ行ってしまった。
御影は熱い茶をすすりながら、昨日のことを思い返す。
御影を禍つ神だと言ったあの目、その存在を認められないと叫んだあの表情が何かと重なった。その思い出すことの出来ない何かは御影が感じてきた嫌忌と憎悪を発する源だ。慣れていたはずのそれが、今は少しだけ胸をざわつかせた。
(生きていたい、ここに居たい。ただそれだけのことなのに)
それを何故、拒まれなければならない。御影を拒む全てのものたちに向けられた問いかけに答えたのは耳障りな響きを持つ声だった。
お前は穢鬼だ。穢れの鬼だ。悪鬼だ。禍つ神だ。沢山殺した。沢山人間の呪詛を浴びた。汚い。穢れている。
溢れ出す嘲笑。他人を呪う呪詛の声。断末魔の叫び。わんわんと頭の中で鳴っている。
「……さん? 御影さん!」
呼び声にはっとした。何も見ていなかった目が見慣れた部屋を映し出す。目の前には眉を寄せた緋衣がいた。
「どうかなさいましたか? ずいぶんぼんやりしていらっしゃいましたけれど……」
「いや……」
何でもない、と答えようとしたその時。ふっと、吐息で塵が吹き飛ばされるように、その視界から色が消えた。全てが黒白に塗りつぶされる。まるで、あの夢のように。
「あ、あ……っ!」
壊すのはお前だ。鏡像がけたけたと笑う。耳障りな、鳴り響く笑声に男は思わず立ち上がる。
「御影さん……?」
小首を傾げて見上げる緋衣の姿もやはり白と黒だった。目の前に夢の光景が踊る。御影は咄嗟に走り出していた。
後ろで誰かが呼んでいたが、振り返らなかった。
御影は屋敷の門を抜け、山の中をがむしゃらに走っていた。頭の中は真っ白で視界にはもう何も見えていない。否、見ようとしていなかった。色を失った景色は御影にとってひどく恐ろしいものだった。以前にも、それを目にし、困惑したのを覚えている。
昔、その社に逃げ込んだ人間の男を生かした社の主は、まるでその男の生きたいと願う心に共鳴するかのように疼き出す。その力を振るおうとする。御影は火のように熱い自らの血と黒白の視界が恐ろしかった。
御影が足を止めたそこは見覚えのある場所だった。人の気配のない森の中に突如として現れた真円。見上げた空はいつかと同じように青いのだろうか。濃い灰色の天井を仰ぎ、御影は瞑目した。未だ鳴り響く嘲笑に、御影は心の中で耳を塞ぐ。
その時だった。
「……ようやく本性を現したか」
聞き覚えのある、刺々しい声に御影はそっとまぶたを押し上げる。そこには青い色を湛えた空が広がっている。半開きだった目が、わあっと見開かれた。色が戻ってきている。その事に安堵しながら、御影は声の主を見た。すると、黒耀は険しい表情で唸る。
「今更取り繕おうと、俺の目は誤魔化せんぞ」
赤い双眸がすうっと鋭く細められた。御影は真正面から黒耀と向かい合う。
「……何故」
敵意と拒絶に満ちた瞳に我知らず言葉が紡がれた。
「何故、俺の存在を頑なに拒む」
己の意志で望み、選んだ場所を追われなければならない。そう問いかけると黒耀の目が思いきり見開かれた。そして、次の瞬間。そこに炎が宿る。
「貴様のような……!」
怒りに震える声が森の静寂を掻き乱した。
「貴様のような禍つ神を認められるわけがないだろう! 血の匂いを振り撒く貴様のような存在は必ずあの方に禍をもたらす!」
「俺は、そんなことを望んではいない」
それが御影の切実な本心だった。しかし、黒耀は鼻を鳴らして、それを一蹴する。
「貴様は望めど望まざれど禍を招き寄せる。違うか!?」
その言葉に御影は口を閉ざすしかなかった。
確かに、穢れの鬼は御影の意志に関わらず禍を招き寄せる。しかし、御影自身はそんなことを望んではいない。一つの存在の内で二つの側面が反発し合う。思考が渦を為してぐるぐると回る。想いも、記憶も、感情も、全てが飲み込まれていく。
「貴様はここに在るべきではない」
吐き捨てるように黒耀は言った。御影の視界はぐらぐらと揺れる。渦は激しく荒れ狂い、遂には御影自身をも飲み込んでいく。
「禍をもたらすその前に、その忌まわしい血の匂いと穢れを連れて出ていけ! 俺の牙が届く前に!」
それがせめてもの情けだとでも言いたげな冷めた視線に御影の中の何かを壊した。小さな、頼りないほどか細い音で何かが割れる音がした。
生温い雫が一筋、頬を伝う。
「俺は……」
そう呟いた御影の視界は色が崩れ去るようにして消えていった。
第三章開幕です! のっけっから黒耀がわんわん吠えてます。
つーか、ほんとすごい吠えっぷり。読者から嫌われたりしないかな……。
き、嫌いにならないであげてくださいねー……。




