幕間、犬神
犬神。その祖先は霊力を持った山犬だった。それが時を経て、術者の使役する式神として飼い慣らされ、今に至る。
犬神は式神として人間にいくつかの制約を定められた存在だった。
一つ、人間に仕えることを存在意義とする。
一つ、主人に絶対に忠誠を誓い、その命令には絶対服従。
一つ、その命を賭してでも主人を守護する。
犬神の内には望めど望まざれど、何代も前の血脈からそうあることを定められていた。
そのため、犬神が主人に逆らうことなどまずなかった。主人がどんな人物であろうとその命が尽きるまで尽くさなければならない。それが人間と犬神というものだった。
黒い毛並に赤い瞳を持ったその犬神は生まれた時から“先祖返り”だと囁かれていた。彼自身、そのことは以前から知っていたが、その意味を理解したのはつい最近のことだ。
彼は他の犬神と同じように母から生まれ、兄弟と共に育った。そして、彼とその兄弟は父から様々なことを学んだ。戦い方、化け方、人の世の有り様。それらは人間に仕えるために必要なことだと教えられた。
その頃から彼には兆候があった。
彼はどの兄弟よりも力が強く、身のこなしが素早く、強靭な体を持っていた。しかし、その反面人の世の有り様はいくら学んでも全く頭に入ってこなかった。興味すら湧かなかった。
それが決定的になったのはほんの数日前のことだ。
十分に育った犬神は主人を得る。方々から一つの場所に集められた犬神から人間が自分の式神に相応しいものを選ぶそれは全ての犬神が通る通過儀礼のようなものだった。親兄弟と別れ、主人の元で生きていくのだ。彼もまた、そうして生きていくはずだった。
しかし、彼は自分を選び、連れ帰った人間を主人と認められずにいた。脆弱にして矮小。だというのに傲慢で身勝手な人間の命令に従い、そのために命をなげうつのは真っ平だと思った。
他の犬神もそう思うことはあるだろう。しかし、制約を定められた犬神ならただ思っただけで終わる。だが、その犬神は主人に牙を剥いた。
“先祖返り”はごく稀に生まれるもので、山犬の血を濃く受け継いだ犬神を言うらしい。祖先の血は制約が薄いせいか、主人に牙を剥くことが出来たのだという。全て、追っ手の会話を盗み聞きして得た知識だった。
太陽の光を浴びて白銀に輝く雪原を黒い獣が駆けていた。主人だった人間に牙を剥き、わらわらと湧き出してくる人間の追っ手から逃れて近くの山に分け入ったのは三日か四日ほど前のことだ。
夜に走り、朝は身を潜めながらゆっくりと進み、日が暮れ始めてから少し休むということを前の日までしていたが、追っ手の気配を感じなくなって随分経つ。今まで身を潜めていた窮屈さを発散するかのように彼は雪原を転げ回り、付いた雪を振り落とすため、ぶるぶると体を震わせた。
(ここまで来れば……)
もう大丈夫だろう。そう思って空を見上げると青く澄み渡った大空に一羽の鷲が悠々と旋回していた。
(獲物を探しているのだろうか……)
犬神はその様子を眺めながら、これからどうしようかと考える。
少なくとも、あの人間の群れがある場所には自分の主に相応しい者はいないだろう。自分を追っていた人間たちも主人だった人間と同じ匂いがした。ならば、この際“先祖返り”らしく山犬として野山で生きていくのもいいかもしれない。不相応な主人を持つよりずっといい。
そう思う反面、どこかに仕えるに相応しい誰かがいるのではないだろうか、という想いを捨てきることは出来なかった。相応しい主人に自分の力を認められ、仕えることが出来たら幸せだと思ってしまうのは犬神の血が流れているからだ。
(俺は、どちらなんだ)
山犬と犬神。どちらも持っている彼は自分が中途半端な存在のように思えた。そう思うとまるで行き場を失ったかのような不安が心の奥底から這い上がってくる。
途方に暮れるように空を見上げていたその時だった。
「ああ、いたいた。萩山殿のところから逃げた先祖返りというのはお前か」
気配を持たぬ誰かが口を開く。咄嗟に声のした方を見ると少女が一人、にやにやと笑っていた。
「そうあからさまに驚くことはないだろう。結界で気配を隠していただけのことだ」
そう楽しげに種明かしをして、少女は空を見上げた。そこには未だ鷲が旋回を続けている。まるで、そこに誰かがいることを示すようだった。
「さて。いつまでもこんなところに長居をしても仕方がないからな。早く済ませるとしよう」
その一言で犬神は確信した。この少女は追っ手だ。身を低くし、牙を剥く。そして、少女が動くよりも早く、犬神は雪を蹴った。
少女はその場から動こうともせず、ただ笑っていた。
微かに乱れた白い雪の上に磔のようにされた犬神の前には少女がしゃがみこんでいる。その肩には一羽の鷲が留まっていた。
「ふむ。一瞬でも私の言霊を破るとは、流石だな」
そう言って少女は素直に感心した様子を見せる。
確かに彼は一度、少女が一言、口にしただけで彼の自由を奪い去った不動の戒めを振りほどき、反撃に出た。しかし、それでも再びこのように磔にされていてはただの皮肉でしかない。
犬神は微かに唸り声をあげながら、赤い双眸で少女を睨み付けた。どんなに僅かであろうと抗わずにはいられなかった。しかし、彼女はそれを物ともせず、膝の上で頬杖をつき、犬神を見下ろしている。
「このまま、萩山殿のところへお前をやれば、まあ殺されるだろうなぁ」
少女はあくまでのんびりとした口調で現実を口にした。確かに、一度でも主人に牙を剥いた犬神の末路は目に見えている。しかし、犬神はそれでも彼女を睨み付けるのを止めなかった。最期まで、人間に屈してなるものかという最後の意地だった。
そんな犬神の目を見つめた少女はしばらくの沈黙を経て、にこりと笑う。
「……よし。私のところに来るか!」
唐突な、予想もしなかった言葉に犬神は唖然とし、思わず唸り声を止めた。しかし、少女は屈託なく笑っていた。
六年前のことである。
第二章終わり! そして、アクセスが2000を突破しました!
皆様、本当にありがとうございます。お気に入りも少しずつ増えていて、本当に嬉しいです。
しかも! こんな月神のためにイラストまで描いてくださる方が……!
感無量です。めちゃくちゃ嬉しいッス。やる気スイッチです。
よかったら、見ていってください。【http://965.mitemin.net/i65773/】




