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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第二章 その存在を示すもの
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十四、其れは己の内に




 空に雲が居座ったまま、夜が来る。しかし、夕飯を終えても黒耀(こくよう)は戻って来なかった。


「……本当に探しに行かなくていいのか?」


 食後の茶が入った湯飲みを手に、御影(みかげ)は何度目かの同じ問いかけを口にする。すると、梓はうんざりとした様子で言った。


「ええい! お前も飽きないな! 放っておけばその内帰ってくる! あれはそういう奴だ!」


 梓の言葉に疾風(はやて)は無言のまま肯定を示し、緋衣(ひい)も曖昧に微笑んでいた。その反応に御影は渋々ながらも頷いて、胸に巣くったもやを押し流すように茶をすする。心地よい苦味が口の中に広がった。


「御影さんは姫様と違って、真面目な方ですから」


 そう微笑む緋衣に梓はむう、と目を細める。


「それはどういう意味だ?」


「いえ。大した意味はございませんよ?」


 微笑みを絶やさぬまま、主人の視線を受け流した緋衣は立ち上がるといつものように食膳を二つ重ねて抱えた。そして、御影に目をやる。


「御影さん。お手伝いいただいても構いませんか?」


 その申し出に御影は無言のまま頷いた。それから自分の膳と手近にあった疾風の善を重ねて持ち上げると、黒耀の膳を見た。残ったままで、手付かずの料理が少し寂しげに見えた。


「黒耀さんの分のお膳はもう少し出しておきましょう。お帰りになってから召し上がるかもしれませんし」


 どこか、気づかうような緋衣の言葉に頷くと御影は勝手場に足を向けた。いつもより膳が一つ少ないだけで、それはひどく軽く感じられた。


 勝手場で膳を降ろすと緋衣はいつものようにたすきをかけて洗い物に取りかかる。御影は見慣れてきたその背中を見ながら、ぼんやりと自分はここにいてもいいのだろうか、と考えていた。

 黒耀の言葉は間違っていない。自分は“御影”だが、その身の内には穢れの鬼を飼っている。常に水面の向こうにいるそれは、御影の意思など一切介さずに(わざわい)を招き寄せるだろう。それを思うと、今ここにいることが不安で仕方がなかった。

 しかし、先程黒耀を前にした時は何故か、自ら出て行こうとは思わなかった。むしろ、それに抗ってでもこの場所に居続けようとさえ思った。

 一体、何がしたいのだろう。理解できない自分の思考に目が回りそうになる。その時だった。


「おーい、緋衣。酒をくれ」


 暢気な声が御影の思考に割って入る。その声の主は御影に気付くとにやりと笑った。


「なんだ、こんなところにいたのか。お前も一緒にどうだ?」


 梓がそう御影を誘うと、背を向けていた緋衣が顔だけ振り向かせてため息を吐いた。


「姫様。御影さんがご一緒でも普通の濁酒(だくしゅ)しかお出ししませんからね」


「……むう」


 先手を打たれ、梓は唇を尖らせた。そんな中、緋衣は慣れた様子で盆に瓶子(へいし)を一本と盃を二つ乗せる。そして、それを御影に差し出した。


「姫様は放っておくといつまでも飲んでしまいますから、適当なところで止めていただけますか?」


 苦笑いを浮かべる緋衣に、御影は


「分かった」


 と頷いて盆を受け取る。梓はやや不服そうな顔をしていたが、御影が盆を受け取ると、まあいいかと言うかのように頷いて踵を返した。御影はその背中を、盆を気づかいながら、ゆっくりと追いかけた。


 梓が選んだ場所はいつぞやの縁側だった。梓はそこに腰を降ろし、雲が陣取った夜空を見上げている。


「……何を見ている?」


 少し遅れて到着した御影が訊ねると梓は御影に顔を向け、薄く笑った。


「想像していたのさ。あの、厚い雲の向こうには月も星も出ている。それを思い描いていた」


 そう言って再び空を見上げる梓の隣に盆を降ろした御影は盆を挟んで向こう側に腰を降ろした。


「御影」


 何を見るでもなく、ぼんやりとしていたところで不意にかかった呼び声に梓を見ると、いつの間にか手酌で酒を注いだ彼女が真面目な様子で御影を見つめている。御影は何だ、と訊ねるように小さく首をかしげた。すると梓は目を細め、くつくつと喉を鳴らして笑う。


「慣れたようだな、その名に」


 男は目を見開いた。言い様のない気恥ずかしさに思わず盃に視線を落とすと微妙に赤みがかった自分の顔が映り込む。

 言われて初めて気がついた。前まで名前などなくて当たり前だと思っていたのが、今では“御影”という名前に生まれ持っていたものであるかのように反応してしまう。


「気に入ったようで何よりだ」


 梓は手酌で二杯目を注ぎながらくすくすと笑った。何となく、顔を見せるのが気まずい御影は顔を上げ、眼前に広がる庭を見る。輪郭のない何者かが巣食っているかのような錯覚に陥る庭の闇は穢鬼の社の闇を彷彿とさせた。


「……俺は、ここにいていいのだろうか」


 ふと、呟くように御影は口を開く。

 解き放たれたはずが、未だにあの暗い庵に手招かれているような気がした。戻りたいなどとは微塵も思わないが、自分がここにいてはいつか何かを壊してしまうのではないだろうか、という不安がどうしても拭いきれない。

 しかし、だからといって出ていくのは何故か抵抗があった。抱えた矛盾に御影は顔を歪める。

 すると、梓は盃を揺らしながら苦笑した。


「お前、ここに来たばかりの時も似たようなことを言っていたな」


 そう梓はその時を懐かしむように目を細める。御影は黙ったまま、虚空を見つめた。


「なあ、御影」


 呼び掛けられ、御影は梓を見た。その眼差しは素直に御影を捉えている。


「お前はどうしたいのだ」


 真っ直ぐに投げかけられた問いかけは御影の言葉を奪った。咄嗟のことに思考が一瞬真っ白になる。

 梓は目をそらすことなく言葉を重ねた。


「お前の外に答えを求めたところでどうにもならん。お前の意志は、お前の内にしかない。ならば自分で決めろ。お前は、どうしたい?」


 沈黙が降りた。どうしたい、という梓の言葉が御影の胸の中で絡まった矛盾をほどいていく。


(……俺は、忘れていたのか)


 生きたいと願いながら、己の生と死を手に入れることを願いながら、生かされ続けたことで“選ぶこと”を忘れていたのか。御影は目を閉じた。

 生かされ続けている限り、御影が何かを選ぶことはなかった。生も死も選べない環境の中で、御影は自由を願いながら、自由に生きる術を忘れていた。解き放たれてからずっと、自らの意志を自身の外側に求めていた。


「……ここに、いたい」


 ほどけた矛盾の先にあった言葉を御影は口にする。やっと気付けた自分の意志がその胸を微かに熱くした。


「なら、そうしろ。したいようにすればいい」


 梓は目を細めて笑った。そして、盃にあった酒をぐいっと飲み干す。その横顔は満足げな笑みを浮かべていた。そんな梓に御影は口を開く。


「……お前から見て」


 梓は瓶子に伸ばした手を止めて御影を見た。御影は梓がしたように真っ直ぐ、彼女に問いかける。


「俺はここにいていいものなのか?」


 一瞬、この世界から音が全て消えた気がした。御影はただ静かに彼女の答えを待つ。その心は平静そのものだった。


「……何を言い出すかと思えば」


 その一言で音が戻ってくる。梓はふっと口角を吊り上げて笑った。


「無論だ。お前がいると私は退屈しないからな」


「……そうか」


 御影は一思いに盃の酒をあおった。すると、暗い空が目に入る。じいっと厚い雲を眺めているとその向こうに静かな夜空が見えた気がした。

予告より一日遅れの更新です……。

うう、最近脱線するというか、話がうまくまとまらないー。


一月二十一日:題名変更しました。

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