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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第二章 その存在を示すもの
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十一、御影




 男が戦慄する中、梓は沈黙したままだった。五条は薄い笑みを浮かべ、言葉を重ねる。


「貴女様もご存知でしょう? その悪鬼は数多(あまた)の命を奪い、人の血と苦痛を糧とする禍つ神(まがつかみ)。偉大なる皇のお造りになられた大地を、皇子の御名を汚す不届き者にございます。何を迷うことがありましょうか」


「……迷う、とな」


 梓が口を開く。喉を鳴らすような笑い声がその場を満たした。


「貴殿は面白いことをおっしゃる。私がいつ、何に迷ったというのだ?」


 そう言って梓はくつくつと笑った。すると、五条がにこりと微笑む。


「迷っておいでではありませんか。明石(あかし)殿からお預かりになられた悪鬼に情けをかけ、未だに手元においていらっしゃる。早々に首を()ねてしまえばよろしいものを」


 その微笑は凍てつくように冷たかった。男に向けられた視線は冷酷で、隙あらば自らその首を刎ねようとしているようだ。

 逃げたい、逃げ出したい、と心が胸の中で暴れだすのを男は必死で抑えていた。少しでもそんな素振りを見せれば五条は容赦無く男を殺すだろう。男は今にも震え出しそうな体を戒めるかのように、拳を握り締めていた。


「……なるほど。貴殿は一つ、心得違いをしているようだ」


 声に笑いを含んだまま、梓は立ち上がった。そして、上座から降りると控えていた男の腕を掴む。


「立て」


 見上げたその顔は冷たく、どこか狩人を彷彿とさせる。彼女は起立を促すように腕を掴む手に力を込めた。しかし、訳の分からない男は動き出すことができなかった。その瞬間、すうっと少女の目が細められる。


「……立て」


 その言葉はまるで、見えない手となって男の心臓を鷲掴(わしづか)みにするかのようだった。その手は冷たく、纏わせた冷気は瞬く間に男の頭から爪先に至るまでを凍えさせる。身体中の神経が痺れ、自由が利かない。まるで操られるかのように男は立ち上がった。

 少女は男の腕を引き、座敷の左側の襖を開け放った。そして、男の体を乱雑に放り投げる。自由を失った体は何の抵抗もできず、白い砂利の上にうつ伏せに倒れこんだ。


「よく見ているといい。五条殿」


 じゃり、と砂利の上に降りた足音が聞こえた。訳の分からない男はとにかく体勢を整えようと体を起こそうとする。すると、また冷気を(はら)んだ言葉が発せられた。


「動くな」


 その一言で男はぴくりとも動けなくなる。起こしかけた体の、微かに見上げた視界にはその声の主の姿が見えた。

 何故、と呟こうにも口が動かない。男はただ、少女を見上げていた。やはり、彼女も狩人だったのか、という考えが脳裏をよぎる。心はずんと重く、暗くなった。

 殺すことはいつでもできた。しかし、彼女はそうしなかった。都よりの使者の前というこの時を彼女は待っていたのだろうか。様々な考えが渦を巻く。

 男は声を発することができないかわりに、必死に目で訴えかけていた。お前は本当に暇潰しで俺をこの屋敷に留めたのか、何もかもこの時のためにだったのか、と目だけで叫ぶ。

 その時、彼女が口を開いた。


「……」


 声もなく、彼女は言葉を発する。その表情は穏やかで優しかった。その目は強く、揺るぎない光を宿している。


(……し、ん、じ、ろ……?)


 唇の動きから読み取った言葉に男ははっとした。私はお前の敵ではない、という言葉が聞こえた気がした。

 少女は袖の(たもと)から一枚の紙を取り出した。そして、長方形のそれにふうっと息を吹きかける。その瞬間、紙が小刀に化けた。少女はその小刀を手に男のすぐ脇に立つ。それから、身を屈めると男の髪を掴んだ。ぐい、と髪を引っ張られ、男の頭は持ち上がる。そっと刃が男の首に添えられた。

 少しだけ見晴らしのよくなった視界に心底楽しげな様子の五条が映る。男はぐっと息を飲んだ。


(敵ではない)


 言い聞かせるように、心の中で呟く。小刀を握る手に力が籠るのが首に添えられた刃から伝わった。

 信じよう、と男は心の中で繰り返す。一瞬、梓が垣間見せたあの表情と瞳に宿った光は信用に足るものだと思えた。何より、男は覚悟を決めたのだ。生きるために、この少女の言葉を信じようと決めた。男はもう迷わなかった。


(俺の敵では……)


 刃がすっと、首筋の方へ動く。


(ない)


 その瞬間、男の頭を無理矢理持ち上げていたものが断ち切られた。反動で男の顔は白い砂利に落ちる。その頬を何かが撫でた。顔を上げると赤い組み紐がほどけ、砂利の上に落ちている。梓はそれをひょい、と拾い上げた。


「五条殿」


 梓が口を開く。体の自由が戻った男は体を起こし、その姿を見た。そこには微笑を浮かべる、いつもの梓がいた。


「都にはこれを持ち帰られよ」


 そう言って差し出したのは赤い組み紐で束ねられた黒髪の束だった。男は自分の首に手をやる。そこに今まであった長髪はなく、首筋が妙に涼しかった。


「……どういうおつもりです?」


 五条が表情から笑みが消え、険しさを帯びる。一方、梓はその問いかけに笑みを深くした。


「どうもこうもない。これは()の悪鬼の遺髪だ。この地に在った悪鬼は私が討ち取った」


 自信たっぷりに言い放つ梓に対し、五条は完全に感情を消した。そして、能面のような無表情で更に問いかける。


「では、そこにいるのは何だというのです?」


「ほう? 五条殿にはこの者が件の悪鬼に見えるのか」


 そう言って梓はからからと笑い出した。


「件の悪鬼は薄汚れた衣に、灰色の肌で痩せこけていた。目は血走り鋭く、髪は乱れたその姿とこの者が同じに見えるのか?」


 五条は黙っていた。男も口を閉ざしたまま、梓を見つめる。

 確かに社に封じられていた頃より見た目はよくなっただろう。薄汚れていた肌は汚れを落とし、血色が悪いながも白くなった。食事もしっかり摂っているため微々たるものだが肥えたかもしれない。服装もあの頃と比べれば雲泥の差だ。しかし、だからといってそれで使者が納得するとは思えなかった。


「立て」


 そう言って梓は男に手を差し伸べる。その言葉は男を従わせようとするものではなく、ただの言葉だった。男は差し伸べられた手を掴み、自らの意思でゆっくりと立ち上がる。すると、梓はふっと微笑んだ。


「そう言えば、紹介が遅れたな」


 挑発的な笑みを五条に向け、梓は口を開く。


「この者は当家の客人だ。名を、御影(みかげ)という」


 聞きなれない言葉に男は梓を見た。梓は男に視線だけ向けると、小さく笑って見せる。

 御影。誰かを指し示すのであろう言葉に男は鼓動が高鳴るのを感じた。

やっと……! 辿り、着いた……!

あー! 辛かった! 穢鬼様を“男”って表記するのしんどかった!

やーっと“男”表記を卒業できそうです!

第二章もそろそろ終わるよ!

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