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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第二章 その存在を示すもの
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十、使者来る




 その日は生温(なまぬる)い、湿った風が吹いていた。

 着替えを済ませた男はいつか、梓と月見酒をした縁側で今にも降りだしそうな暗い空を見上げる。薄暗い空は男のため息を誘った。

 相変わらず、男の胸に恐怖はない。しかし、狩人の存在を思い出すことで男の心には重石が一つ、括りつけられていた。狩人への恐怖が消えたところで男の足元の一寸先は闇であることに変わりはないのだ。改めて考えてみると思い知らされる。男には何もない。居場所も、生きていく術も、知識も、身分もない。今は辛うじてこの屋敷に身を寄せているが、それも一時のことにすぎない。あの社から解き放たれた時から男は何一つ持たず、果てしない闇に放り込まれたままだった。


(俺は……、何だ?)


 人に追われ、穢れの鬼となり、狩人に追われ、四季宮(しきみや) 梓の元に身を寄せる自分は一体何者なのか。いくら考えを巡らせたところで答えは出ない。自分という存在が足元から崩れて消えていくような気がした。その時。


「おお。中々様になっているではないか」


 機嫌の良さそうな声で現実に引き戻される。声のした方を見ると、白の直衣(なおし)(くれない)指貫(さしぬき)をまとった梓が笑みを浮かべ、男の元へ歩み寄っていた。


蘇芳(すおう)の直衣に檜皮(ひはだ)の指貫か。客人は顔の色が悪いからな。やはり、赤みのある色を合わせて正解だ」


 そう言って梓はからからと笑う。そんな中、男は屋敷の主の姿を上から下まで見ると疑問を口にした。


「頭はそれでいいのか?」


「うん?」


 梓は首をかしげたが、男がその頭上を注視していることで言わんとしていることに気付いたらしい。うんざりとした様子で口を開いた。


「あー、構わん構わん。私は烏帽子(えぼし)は好かんのだ」


 恐らく、緋衣(ひい)は何とか烏帽子を被せようと奮闘したのだろう。しかし、当の本人がこの様子ではまた深いため息を吐いたに違いない。男は小さく苦笑した。


「好き嫌いが激しいな」


「まあな。……それに、お前とて人のことは言えんだろう」


 そう言って梓は男の頭を顎で示す。確かに男もいつもの組み紐で髪を結っているだけだった。


「これが一番落ち着く」


「私もだ」


 口元に笑みを浮かべながら梓が同意する。しかし、その笑みはすぐにふっと鳴りを潜めた。


「……なあ、客人」


 澄んだ、迷いのない眼差しが真っ直ぐ男に向けられている。男は沈黙を守り、次の言葉を待った。


「前に、私はお前の敵ではないと言ったのを覚えているか?」


 その問いかけに男は少し目を細めた。記憶を辿ればそう遠くない、この屋敷を訪れてすぐの記憶の中にその言葉がある。


「……ああ。覚えている」


 男がそう答えると梓は小さく、満足げに笑った。


「ならば、その言葉を信じていろ。私は、お前の敵ではない」


 そう告げた梓はひらりと踵を返す。男は無言のまま、その背中を見送っていた。敵ではない。それは男を拒む存在ではないということだ。しかし、裏を返せば味方でもないことを意味する。

 男は瞑目(めいもく)して、深く息を吐いた。やはり、ここは暗闇の中だと思う。だが、それでも男は足掻くことをやめようとは思わなかった。例え、孤独な闇の中だとしても願いを捨て去ることはできない。

 男は目を開けた。外はやはり薄暗く、空は(なまり)色だ。まるで男の胸中を映しているようにも思える。しかし、男は不安を断ち切るかのように空から目を反らした。

 今は「敵ではない」という彼女の言葉を信じよう。“生きる”ためにはそれが一番確かな道だ。男は静かに時が来るのを待っていた。


 使者を連れた黒耀(こくよう)が戻ったのは昼前のことだった。

 男は初めてこの屋敷に招かれた時に酒を呑んだ座敷で目を閉じている。上座には梓が座り、その側に控えながら、ずっと耳を澄ませていた。


(足音……)


 聞こえるのは二人分だった。その内一つは聞きなれた、緋衣のものだ。段々と近付いてくるそれに男は鼓動が早鐘のように脈打つのを感じた。


「……来たな」


 梓がにやり、と笑う。楽しげな光を宿した眼差しは正面の、松を描いた(ふすま)に注がれた。しばらくして、聞きなれた声が使者の訪れを告げる。


「失礼いたします。都より、使者の方が参られました」


「お通ししろ」


 主の一言で襖がすうっと開いた。そして、一拍置いてから狩人たちと同じ白装束の男が座敷へ足を踏み入れる。それは男の知らない顔だった。


「おや。てっきり明石(あかし)殿か、和泉(いずみ)殿がいらっしゃるかと思っていたのだがな」


 僅かにおどろいたように梓が言う。するとまだ年若い、能面のように無表情な使者が口を開いた。


「明石殿は皇子より下された命を果たすべく、奔走なさっております。和泉殿はその補佐。故に私めが参上した次第にございます。四神衆(しじんしゅう)が筆頭、四季宮家の御当主のお目にかかるには不相応な身ではございますが、ご容赦くださいますように」


 そう言って頭を垂れる使者に梓はすっと目を細めた。その口元は狩人たちをからかっていたあの時のように意地悪く笑っている。


「何をおっしゃる。私は四季宮の当主と言えど、流人(るにん)の身。都に居を構えられる貴殿がそう(かしこ)まれることもあるまい」


 相手がどう反応するかを楽しむかのように梓は使者を見据える。すると、使者の男は静かに頭を上げた。


「流人? 皇子は貴女様の御身を(いたわ)り、休養を勧められたのでしょう。そのようなことをおっしゃられますな」


 眉一つ動かさず、ただ言葉を紡ぐ。その言葉に意味や感情は欠片も含まれていないように男には見えた。まるで、見えない何かに操られている人形のようだ。男はその姿に薄気味悪さを覚えた。


「物は言い様とはよく言ったものだ」


 梓は使者の言葉は冷たく一蹴する。それに対し、使者は無言のまま梓を見つめていた。その目を梓も真っ向から見つめ返す。鋭く閃く光と温もりを持たない虚無が交錯した。

 その一瞬にも満たない沈黙の後、ふと使者が口を開く。


「……ああ。そう言えばご挨拶が遅れてしまいました。申し訳ありません」


 やはりそこには一欠片の感情もない。それどころか、主君への不敬に怒る様子も見せなかった。堪え忍んでいるようにも見えない。ただ何事もないかのように居住まいを正している。それを梓はぴしゃりと一蹴した。


「私は形ばかりの挨拶は嫌いでしてな。何故、かような土地まで参られたのか、簡潔に述べられよ」


 射抜くような、冷たい刃のような視線を梓は向けていた。その声は微かに低く、彼女の不快感を表しているようだ。

 一方、使者はここに来て初めて感情を露にした。微かな驚きが瞬く間に気色に塗り替えられていく。理由の分からない変化に男は眉根を寄せた。


「私も形ばかりに(こだわ)った挨拶は苦手にございます。一言で済ませてしまいましょう。……五条(ごじょう) 尚之(なおゆき)と申します」


「……聞かぬ名だな」


 梓の言葉に五条は薄い笑みを浮かべたまま頷いた。その表情は何故か狡猾な蛇を思わせ、男は無意識に拳を握りしめる。狩人たちよりも強い恐怖をこの使者からは感じていた。


「四季宮家とは比べ物にならぬほど、小さな下流の家にございますゆえ。しかし、まさか四季宮の御当主が私ごときと同じ考えをお持ちであるとは思ってもみませんでした」


 そう言って五条は笑みを深くする。相対する梓は五条が感情を深くするほど、冷めたような様子を強くしていた。


「何にでも貴賤(きせん)をつけようとするのは都人(みやこびと)(さが)のようだ。……して、何用で参られた?」


「ええ。簡潔に、申し上げましょう」


 冷めきった梓の言葉にも五条はにたりと笑っていた。その目は底無し沼だ。見るもの全てをずるりと飲み込もうする。男はぞわりと、肌が粟立つのを感じた。この五条という男は危険だと先程から本能が騒いでいる。そして何より、水鏡の向こうの穢れの鬼が疼いていた。この人間が孕む、見透かすことのできない暗いものを嗅ぎ付けている。

 ふと、その視線が男に向けられた。刹那、身の毛が総毛立つ。向けられた眼差しは血に濡れた刃のようだ。いくらその刀身を美しく飾った鞘に隠していても血の匂いは隠しきれない。


「その悪鬼の首を、貰い受けに参りました」


 狩人は直接的な死の化身だった。しかし、この男は根本的に何かが違う。それが何なのか、男に言い当てることはできなかったが、この五条という男が脅威であることは十二分に理解できた。

第二章山場!

この次の話にたどり着きたくて作者はずっとうずうずしてました。

どうぞお楽しみに!

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