九、待ちわびる
緋衣が一歩進めば、梓が一歩下がる。互いに口を一文字に結んだまま、ぶつかり合う視線の火花だけがばちばちと音を立てていた。そんな状況で思わず男は緋衣に問いかける。
「何があったんだ」
「あ……っ。これはお見苦しいところを」
そう言って恥ずかしげに頭を垂れているところを見ると今の今まで男に気付いていなかったらしい。本当に、何があったんだと再度男が尋ねようとすると、それより早く梓が口を開いた。
「嫌と言ったら嫌だ! 普段着で構わんだろう!」
その瞬間、緋衣の注意が男から外れた。黒い瞳がすっと細められ、鋭くなる。そして、険しい表情で言い放った。
「ですから! 正式な使者の方に対してそれは無礼です! きちんとした服装をなさってください!」
「知るか! 皇子に謁見するわけでもないのにあんな格好ができるか!」
まるで子供が駄々をこねるかのような様に、男は二人から事情を聞くのを諦め、疾風を見た。その視線に気付いた疾風は深いため息を吐き、気が進まない様子ながらも口を開く。
「主は普通の女が着るような衣を嫌う。しかし、緋衣は使者を迎える正装としてそれを着せようとしている」
「なるほど」
実に分かりやすい構図だった。疾風が半ば無関心で事の成り行きを見守っているのも納得だ。
一方、梓と緋衣は互いに譲らず、戦いは平行線を辿っていた。梓が一度決め込めば引き下がらないというのは何となく感じていたが、緋衣がここまで頑固なのはかなり意外だ。
「……埒が開かんな」
疲れた様子で疾風が呟いた。そして、小さく息を吸い込む。
「緋衣」
「えっ、あ、はいっ! な、何でしょう?」
疾風の呼び声にはっと我に返ったらしい緋衣は少し頬を赤らめながら答えた。そんな緋衣に対し、疾風は普段と変わらない淡々とした様子で先程話題に上がった蘇芳の衣を指差す。すると、緋衣の注意は瞬く間にそちらに向いた。その陰で梓はこっそりと安堵の息を吐いている。どうやら疾風の目論見は功を奏したらしい。
「……ええ。良いと思います。良いお見立てですね、疾風さん」
長櫃から顔を上げ、満足げに微笑む緋衣に疾風は首を横に振った。
「梓様のお見立てだ」
「え。姫様の……?」
緋衣は驚いたように目を見開いて梓を見る。すると梓は胸を張って頷いて見せた。それから、長櫃の中を覗き込み、その中の一つを指差した。
「ちなみに私はこれにする予定だ」
そう言って選んだのは新雪のように白い衣だ。
「これに紅の指貫でどうだ?」
自信に満ちた表情で梓は笑った。白に紅の組み合わせは巫女の出で立ちを彷彿とさせる。そう言った意味では良い見立てのように思えた。しかし、緋衣は不満げな顔をしていた。
「そんなに小袿が嫌いですか」
「ひらひらした衣など性に合わん!」
ぴしゃりっと梓は言い放つ。緋衣は深く、今まで見たため息の中で一番深く、ため息を吐いた。
「分かりました……。そのようにいたします」
どうやら緋衣の方が折れたらしい。がっくりと肩を落とす緋衣とは対照的に梓は満面の笑みを浮かべた。
「よし! 後は黒耀の帰りを待つのみだな」
「出かけているのか?」
そう言えば姿が見えない、と男が問いかけると梓は頷いた。
「近くの港まで行かせてある。使者を案内するようにとな」
「そうか」
男が納得して呟くと梓はにやにやと悪戯を企む子供のように笑った。
「さぁて、どんな使者が来るか。楽しみだな」
初めて出会った時と同じ老獪な笑みは、まるで獲物を目の前に舌なめずりをする獣のようだ。男は呆気にとられるような心地で口を開いた。
「お前に怖いものはないのか」
「あるさ。まともな人間なら恐れるものの一つや二つ。いや、ごまんとある」
梓はそう、さも当然と言いたげな様子で答える。その側で長櫃を片付けていた緋衣は苦笑いを溢した。
「姫様の振る舞いを見ていますと、怖いもの知らずのように見えますわよねぇ」
同じく片付けを手伝っていた疾風は無言のままだったが、肯定するような雰囲気を纏っている。すると梓はやれやれと首を竦めた。
「お前たちは自分の主人を化け物だと思っているのか?」
「そんなことはございませんよ?」
くすくすと緋衣が笑う。そんな中、男はどこか物寂しさを感じた。
「黒耀がいないと何となく静かだな」
その言葉に緋衣と疾風は一度片付けの手を止め、ぼんやりとしていた梓は男を見た。そして、くすくすと笑い出す。
「ああ、客人は彼奴に吠えられっぱなしだったからな」
「姫様! お笑いになるくらいでしたら黒耀さんにきちんと注意なさってください!」
眉をつり上げて言い諭す緋衣の言葉もどこ吹く風と梓は笑い続ける。疾風はすでに片付けに戻っていた。
「まあ、奴の帰りを楽しみに待つとしよう。きっと、面白いことになる」
そう言って笑う梓に緋衣は諦めたように小さくため息を吐き、疾風は無表情のまま沈黙を守っていた。
男はぼんやりとその三人の姿を眺める。何故だか彼女らといるこの空間が男を不思議な心地に誘い込む。
この場所の空気は男の心を穏やかにしていた。あんなにも恐ろしかった狩人が来るかもしれないというのに、心にはいつかのような穏やかな風が吹いていた。恐怖など、どこにもなかった。
お母さんは我が子に綺麗な服を着てみてほしいものです。
緋衣のお母さんモードはそういう理由。




