八、嵐の前の騒がしさ
よく晴れた空の下。井戸の側で男はしゃがみこんでいた。その手元には濡れた手拭いがあり、目の前には水を張った洗濯桶がある。
男は一度水の中から引っ張り上げた手拭いをまじまじと見つめ、再び水の中に戻した。ごしごしと布同士を擦り合わせながら、白い手拭いに着いた汚れを落とすことに努める。
「すみません。いつもお手伝いしていただいて」
男の向かい側で同じく洗濯に精を出す緋衣が微笑んだ。男は小さく首を横に振り、
「構わない」
と答える。確かに長い間冷たい水の中に手を入れているのは楽ではないが、こういった地道な作業が嫌いではない、と男は思った。
じゃぶじゃぶと水の音だけが二人の間を流れる。その沈黙をふと口を開いた緋衣が破った。
「……それにしても、先程は驚きました」
「何がだ?」
男は首をかしげる。すると緋衣は少し困ったように笑った。
「先程、出ていかれようとした時です」
そう言って緋衣は今まで洗っていたものを絞り、脇に置いた篭の中へ入れた。男はもう一度、手拭いを水から上げ、まだ汚れが落ちきっていないことを確認すると更に首をかしげた。
「何故だ」
「何故って、行く当てもないのでしょう? それなのにここを出て、どこへ行くつもりだったのです?」
逆に問いかけられ、男は答えに詰まった。
何も考えていなかった。また狩人から逃げることになるとは思っていたが、それ以外のことは何も考えていなかった。ただ、“生きる”ことだけを考えていようとだけ思っていた。
「……独りは、辛いものです」
ぽつり、と呟くように緋衣は言う。そして、洗濯桶から顔を上げると男に微笑みかけた。
「わざわざ、辛い目に合う必要なんてありません」
その言葉は下手な同情心などではなく、もっと心の奥深くから来ているように聴こえた。男は内心、益々首をかしげる。
彼女はその存在が人でない者だったとしても、四季宮家に仕えている者だ。それ以前に何かあったとしても、彼女が自分のように深い闇の中にいた記憶を持っているとは思えなかった。
「……それにしても、お客人は覚えが早いですねぇ。大助かりです」
男の手の中の物を見て緋衣は嬉しそうに笑った。男はそれを水の中から引き上げ、掲げてみる。汚れが綺麗に落ちたそれは汚れる前と同じに見えた。
こんな風に過去を消せたなら、どんなに良いだろう、と思ってしまう。常に穢れの鬼は影のように、すぐ側にいる。今朝の一件でそれを痛いほど思い知らされた。
「……綺麗に消えるものだな」
男の言葉に緋衣は微笑を浮かべ、頷いた。そして、篭を小脇に抱えると立ち上がった。
「干すのを手伝っていただけますか?」
「ああ」
男は手拭いを握ったまま立ち上がり、空を見上げた。今日もよく晴れている。洗濯物の乾きも早いだろう。汚れのようには簡単に消せない過去を思いながら、男は一つ息を吐いた。
それは洗濯物を干し終えてからのことだった。
「客人」
いつぞやのように現れた疾風の呼び掛けに男は振り向く。そして、縁側に立つ無表情に以前のように気後れすることなく、口を開いた。
「何か用か?」
「ああ」
そう答えて疾風は緋衣を見た。その眼差しに緋衣は笑って頷く。
「どうぞ。こちらはもう済みましたから」
「そうか」
淡々と受け答えをし、一瞬男に目をやると疾風は踵を返して歩き出した。付いてこい、ということのようだ。
「姫様も姫様ですけど、疾風さんも言葉が足りませんねぇ」
緋衣は苦笑を浮かべる。男は一度緋衣を見ると、
「行ってくる」
と告げ、疾風の背中を追った。
疾風に先導されながら長い廊下を歩く。以前にも似たようなことがあったと思いながら歩き、辿り着いたのは一つの部屋の前だった。
鶴が空を舞う様が描かれた襖に疾風が手をかけ、開く。そこには黒い漆塗りの長櫃がいくつか、無造作に置かれていた。
「これは?」
男が尋ねる。すると疾風は僅かに表情を歪めながら答えた。
「主の命で、使者が来るにあたり客人に服を見立てろと言われた、のだが……」
疾風にしては珍しく言葉尻を濁す。男が小首をかしげると、疾風は苦々しくため息を吐いた。
「この手の事は緋衣の領分だ。使者を迎える仕度で手が空かぬ、と俺が任されたが、勝手が分からん」
「分からないのか」
「ああ」
しばし、二人の間に沈黙が降りた。自分の領分でないから勝手が分からないという疾風以上に男は勝手が分からない。今まで自分の姿形に気を使ったことなど一度もなかった。
「……とりあえず、見てみるか」
重々しく沈黙を破った疾風が長櫃の蓋に手をかける。その中には様々な色や紋様の衣が収められていた。
「すごいな」
色の洪水を目の前に男が思わず呟く。すると疾風は無感動な様子で蓋を箱の側に置いた。
「四季宮家ほどの家になると放っておいても衣の方から集まってくる」
そう言って疾風は他の長櫃の蓋も開け、ため息を吐いた。
「俺に人の衣服の良し悪しは分からん」
「俺にも分からない」
同意の言葉を口にしながら男は櫃の一つを覗き込んだ。そこには赤、黄、青、紫、黒、白と様々な色が溢れ、一口に赤と言っただけでも何通りもの色があった。淡い色合い、目が醒めるような鮮やかさ、深い色合い、渋い味わい。見ていて飽きることがない。
「これは全て、人が作ったものなのか?」
「ああ。草木や、他の染料を使って染めたものらしい」
疾風の答えに男は更にまじまじと長櫃の中を眺めた。あの野山の草木がこんなにも数多くの色合いを生み出すなど、まるで想像がつかない。
「おーい。どうだ、決まったか?」
不意に背後から聞こえた声に二人が一斉に振り向くと、廊下に立った梓がにやりと笑っていた。
「どうやら、まだのようだな」
「申し訳ありません」
疾風がその場で頭を垂れる。梓は笑って、いいさと答えた。
「私を含め、緋衣以外は本当にこの手の事はさっぱりだからな。仕方がない」
「お前もなのか」
意外な思いで男は目を丸くする。女というものは皆、衣装やら何やらに詳しいものだと思っていた。しかし梓はふん、と鼻を鳴らして男の言葉を一蹴する。
「私の見てくれを見てそうは思わんのか? 生憎と生まれてこの方、衣服の事は緋衣に任せきりだ」
そう言って梓は長櫃の一つへ歩み寄り、ひょいと中を覗き込んだ。その一つ一つに指を滑らせ、ある一つの色に指を止める。
「これなど、どうだ?」
それは褪せたような色合いの赤だった。
「蘇芳、ですか」
「ああ。中々の見立てだろう」
疾風の言葉に得意気に梓は胸を張る。その時だった。
「姫様!」
珍しく声を荒げた緋衣が小走りに部屋へと飛び込んでくる。その表情は険しく、鬼気迫る様子で梓を見据えていた。その視線の先の梓は不味い、と言わんばかりに顔を引き吊らせる。
「今日という今日は逃しませんよ……!」
「く……っ。油断したな……」
正に今、戦いの火蓋が切って落とされようとしている雰囲気だ。何事かと男が疾風を見ると、彼はやれやれと呆れた様子でため息を吐くだけだった。
きっと彼らは使者が来るよりも来る前の仕度の方が大騒ぎだと思われます。
特に緋衣が。




