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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第二章 その存在を示すもの
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六、月見酒



 その後、疾風(はやて)が三匹の魚を釣り上げ、二人は川を後にした。その頃には太陽は一仕事終えた様子で傾き始めていた。物の影は一際長くなっている。杉林の影が落ちた帰路は少し肌寒く感じた。


「あら。お帰りなさいませ」


 屋敷の門の側まで来たところで、緋衣(ひい)が二人を出迎えた。茜色に照らされたその手には(ざる)があり、野山で摘んできたらしい芹が盛られていた。


「釣れましたか?」


「ああ、丁度五匹だ」


 淡々と魚籠(びく)を差し出す疾風に緋衣はにこりと微笑み、笊を片手に移して魚籠を受け取った。そして、微笑を浮かべたまま男を見た。


「いかがでしたか、釣りは?」


 どうだったか、と言われれば結果は散々だ。しかし、そんなことは取るに足りないと思えるほどの高揚感が男を包んでいた。


「釣れはしなかったが、面白かった」


 それが素直な感想だった。その言葉に緋衣は破顔一笑した。


「それは良うございました」


 緋衣はまるで我が身のことのように喜んでいる。やはり彼女は梓に次いで謎の人物だ、と男は思った。何故自分にそこまでして心を砕いてくれるのか、まるで分からない。

 彼女は笑みを浮かべたまま、上機嫌で両手の食材を交互に見る。


「今夜は腕に縒りをかけて夕餉(ゆうげ)を作りますね」


 輝く笑顔の予告通り、その日の夕餉は特別に美味かった。


 その夜。夕餉も終わり、男は縁側から月を見上げていた。

 暗闇に輝くそれは、以前梓と見上げたときよりも満ちていたが、まだ半月には届かない。それでもいつかは半月となり、満月となり、欠けて、一度消え、再び満ちていくのだろう。それを月が拒んだとしても、この理は覆らないのだろう。

 全ては立ち止まらずに進みゆくばかりだ。過去に焦がれたところで、やはり虚しい。しかし、焦がれずにはいられない。息が苦しくなるのを感じた。


「おや、客人。夜は嫌いではなかったのか?」


 見上げればにやりと笑った梓が立っていた。その手には瓶子が一本と盃が二つある。男の視線の先に気付いたのか、梓は瓶子を振って見せた。


「久々に月見酒でもしようかと思ってな。疾風の奴でも捕まえて付き合わせようかと思っていたが、どうやら手間が省けたらしい」


 そう言って梓は男の隣に腰を降ろした。男は口を閉ざしたまま、再び月を見上げる。その周りの闇は薄らいで見えた。


「夜は嫌いだが、月は好きだ」


「ほう?」


 手酌で盃を満たしながら、梓は続きを促すかのような相槌を打つ。男は静かに瞑目(めいもく)した。そこには茫漠とした闇が広がる。一筋の光もない。


「……月があるだけで、夜の闇は大分和らぐ」


「ふむ。なるほどな」


 男が目を開くとそこには月が煌々と浮かんでいた。自然と笑みが溢れる。例えそれが進みゆくばかりの存在だとしても、その光はこの世界が唯一男に与えうる慈悲のように思えた。


「ならば、その月を肴に呑むのもまた一興だろう」


 そう言って梓は盃を一つ、男に差し出した。盃はこの屋敷へ始めてきたときと同じ白い陶器だが、注がれた酒は白く濁った濁酒(だくしゅ)だ。男が盃を受け取ると梓は微かに顔をしかめた。


「むう……。初めからお前と呑むと言えば緋衣の奴も上物を出したかもしれんな」


 惜しいことをした、と言いながらも一思いに飲み干す。その様子に男は苦笑を溢した。そして、盃を傾ける。久々の濁酒だったが、やはり社に奉じられたものよりは美味い。男はそんなことを思いながら月を見上げた。


「月影の庭、というものも中々趣があるとは思わんか?」


 ふと、梓が口を開いた。月から目を離し、屋敷の主にそれを向けるとその表情は穏やかで、口元には優しげな笑みを浮かべている。男の視線は自然とその微笑の先へと向いていた。

 暗闇の中、月の影が描き出した庭はものの輪郭が全て滲んでぼやけたようだった。しかし、庭にあるもの達が混ざり合うことはなく、確かに個としてそこに在る。その全てが月に(いだ)かれ、己を保っているかのようだった。


「空を仰いでばかりでは、目の前のものを見失うぞ?」


 梓が悪戯(いたずら)っぽく笑う。その間も男は庭を見つめていた。

 暗闇は見慣れていたはずだった。暗い堂の中で扉や壁の隙間から差し込んだ月の光に何度救われたことだろう。しかし、その景色は月の光が明るいばかりで闇は闇だった。

 だが、ここの闇は何かが違った。


「……ここの闇は薄いような気がする」


「……客人は面白いことを言うな」


 にやにやと梓は笑う。それに対して、男は至極真面目だった。

 あの庵にいた時よりも、確かに闇は薄くなっている。あの情け容赦なく男を丸呑みにした闇が、今は一歩手前でこちらを見つめているように感じていた。

 何故だろう、と男は首をかしげる。その時、目に映ったのは梓の姿だった。


「……お前がいるからかもしれない」


 その結論を男が口にすると梓は口に含んでいた酒を庭に向かって思いきり吹き出した。それから、げほげほと咳き込む。男は目を丸くしてその様を見ていた。


「こほっ、かは……っ! ほっ、本当にお前はっ、面白いことを言うな!」


 梓は咳き込みながらも、げらげらと腹を抱えて笑う。そんなに妙なことを言っただろうか、と男は首をかしげた。その間も梓は、ごほごほげらげらと咳き込みと笑いを繰り返している。それからしばらくして、ようやく一息吐くと、へらりと笑った。


「ならば、ここまで流されてきた甲斐があったというものだ」


 そう言って、また手酌で酒を注ぐ。男は聞き流せない言葉に眉根を寄せた。


「流された?」


「ああ。まあ、丁度いい骨休めだ。都は無駄に明るいからな。こんな(ひな)でなければ、この庭は(おが)めなかった」


 平然とした様子で梓は言う。男は盃を傾け、残りの酒を呑み干した。

 そもそも、何故この少女はこんな辺境にいるのだろう。本州の都から離れた鄙だ。そんな所に彼女がいるのはやはりおかしい。四神衆(しじんしゅう)の筆頭。四季宮(しきみや)家の現当主。その肩書きがどのような力を持つかまで男に計り知ることは出来ないが、それでもこんな場所にいるような人間でないことは分かる。

 それが何故か、ここにいる。本人曰く、流されたのだという。


(反逆か……? それとも、()められたのか……?)


 そう考えたが、どちらの考えもすぐに霧散した。どちらも彼女らしくないと思う。それに何より、それ相応の暗い感情を彼女から感じなかった。反逆を起こすだけの野心も、嵌められたことへの憎しみも、彼女の表情や様子からは見て取れない。どんなにひた隠しにしたとしても、その手の感情を穢れの鬼が見逃すはずがなかった。


「なあ、客人」


 長く黙り込んだ男を訝しむでもなく、自然な様子で梓は口を開く。男は意識を思考の湖の底から浮上させ、梓へと目を向ける。


「お前、これからどうしたい?」


「……どういう意味だ?」


 唐突な問いかけに男は目を細める。梓はひょいと肩を竦めて見せた。


「どうもこうも、そのままの意味だ。このまま、何をするでもなくこの屋敷で暮らすのが望みだというのなら、それはそれで構わんが」


 梓は冗談めかして笑う。男は胸の奥で何かが(うず)くのを感じた。その言葉に暗い庵の中で焦がれ続けた願いが叫び声を上げている。男はそれに衝き動かされるがまま、口を開いた。


「俺は、生きたい」


 己の手のひらに目を落とす。青白い、無力で、何も持っていない手。己の生と死すら持つことの出来ない小さなもの。男はそれを握りしめた。


「ただ、生きていたい」


 梓は黙ったまま、盃を傾けていた。沈黙の中で夜風が歌う。男は月を見上げた。月は静かに佇んでいた。


「良い答えだ」


 不意に梓が口を開いた。満ち足りた微笑を浮かべ、男を見つめる。


「実に単純明快で、強い願いだ」


 その目はいつか見た目によく似ていた。この世界は美しい、と言ったあの時の小さくも揺らぐことのない強い光が男に向けられている。

 梓は瓶子を男に差し出した。


「残りの酒を片付けてしまおう。ほれ、盃を出せ」


 そう言って瓶子を振る。ちゃぷちゃぷと小さな音がした。残り僅かのようだ。


「……貰おう」


「おう。呑め!」


 男が盃を差し出すと梓は溢れんばかりになみなみと酒を注いだ。男はそれを一思いに飲み干す。


「うむ。やはりお前は呑みっぷりがいいな。見ていて清々しい!」


 梓はからからと高らかに笑った。それからふと空を見上げる。


「……そろそろ、一雨降りそうだな」


 月の煌々と輝く空にぽつりと呟いた。

2012年、最後の更新です。

あー、十二月の中旬そこそこに連載開始して、まさかここまで来れるとは。

それもこれも、読者の皆様のお蔭です。誰かが読んでくれてるってものすごく嬉しいです。それがやる気に直結します。

正直、UPしてもしばらく誰も来ないのが通常運転の月神でしたから今の状況が果てしなく幸せです。感想までもらっちゃったし。


さて、本編が忙しくなってくる気配を残しての年越しですが、皆様良いお年を!


PS.月神は帰省のため、元日から四日まで更新ができません。福島にパソはない……! よって、最新話は五日に投稿となります。

待っててやって下さい!

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