五、野に在る者の眼差し
男が屋敷に留まり、五日が経とうとしていた。
その間、やはり黒耀は男に警戒感を剥き出しにし、緋衣からは雑用を少しばかり任され、梓は気紛れに男を散歩に連れ出した。
男にとっては退屈しない、未知との遭遇を繰り返す日々だったが、五日目の今日。予想だにしなかったことが起きていた。
男は少し前を歩く、焦げ茶の髪の男を見る。その歩みに合わせ、長い髪が一房だけ揺れ、肩に担いだ竿がしなっている。男の見知らぬ道を行く道中は二人分の足音だけが聞こえていた。
事の発端は恐らく、梓が昼食の後に口にした一言だろう。
「夕餉は何か、川魚が食べたいな」
三杯の米を平らげた後の言葉である。そんなに食べて、よく次の事を考えられるな、と男は素直に感心していた。その後、もうほぼ日課となりつつある食膳の片付けを手伝い、水汲みを終えたところでそれは起こった。
「客人」
井戸から勝手場まで運んだ水を別の桶に移し変えたところで声が降ってくる。見上げるとそこには、今まで男に関して不干渉の立場であった疾風が立っていた。
「あら、珍しいですね。疾風さんがこちらにいらっしゃるだなんて」
洗い物をしようとたすきを掛けた緋衣が微笑む。疾風は無表情のまま頷くと男を見た。
「手を借りたい」
「……俺の、か?」
戸惑う男に疾風はそうだ、と頷く。急な申し出に男は思わず気後れした。どう答えたものかと言葉が出てこない。すると、緋衣がその背中を押すように口を開いた。
「ここはもう大丈夫ですし、どうぞ行ってらしてください。いつもお屋敷にいるか、姫様のお相手だけですから、たまには別の事をしてみるのもいいかもしれませんよ」
そう言って彼女は目を細めて微笑んだ。そして、今に至る。
二人分の釣り道具を持った疾風に付いて歩いてずいぶん経った。杉林の向こうで先程から水の音が聴こえている。互いに無言のまま歩き続けると次第に杉の木もまばらになり、足元には石が増えてきた。それが砂利道に変わるまで大して時間はかからず、砂利道に入ってしばらくしない内に川がごうごうと音を立てて流れているのが見えてきた。
「……こっちだ」
辺りを見渡した疾風が川辺の大岩を指し示す。男はそれに従い、砂利の上を歩く。川に流され、角がとれて丸くなった小石の上は歩きやすかったが、大岩に近付くにつれて小石が石に、石が岩になっていく。二人はその岩を踏み台に、大岩の上まで登った。
大岩の上は目の前をゆく大河を見渡せ、眺めがよかった。向こう岸にはまた森が広がっている。川上も川下も、果ては見えず、空はどこまでも広かった。胸を空くような景色に男は思わず見入っていた。
「ここでいい」
そう言って疾風は手に下げていた魚籠を降ろし、肩に担いだ竿をの一本を男に差し出した。釣糸の先には何かの骨で作られた釣り針がある。男がそれを受け取ると、疾風は慣れた様子で自分の竿の釣り針を手繰り寄せ、魚籠とは違う袋から地虫を一匹取り出した。それから、それを釣り針の先に仕込む。男はその様子をしげしげと見つめていた。
「……釣りをしたことはないのか?」
「ない」
「そうか」
投げ掛けられた問いに男がきっぱりと答えると疾風は無感動に淡々とした様子で餌の付け方を教えた。男は慣れない手つきながら釣り針に餌を付け、疾風がしたように釣り針を放物線に放つ。
それからは静かだった。川のせせらぎと小鳥のさえずりと森のざわめきしか聴こえない。川の水面は深い碧で、見つめているとその色合いに囚われそうになる。時間が止まったような心地さえした。その時、耳に届いた水の弾ける音が瞬く間に男を連れ戻す。
見れば、竿を引き上げた疾風が釣った魚を魚籠に移していた。おお、と男の口から思わず感嘆の声が溢れる。
「釣れるものだな」
男がそう言うと疾風は微かに眉根を寄せた。
「でなければ困る」
「それもそうだな」
しかし男から見て、これで魚が捕れるというのは、やはり意外なものだった。そう思った時、握った竿に妙な手応えが加わる。疾風が目を見開いた。
「かかった。竿を引け」
「ああ」
言われるがまま、竿を引く。その瞬間、手応えが消えた。釣糸を引く重さが一気に軽くなる。
「……逃げられたな」
ぽつり、と疾風が言う。
「そうだな」
男も淡々とそれを肯定した。釣り針を自分の前に手繰り寄せると餌が見事に取られていた。疾風が次の餌を手渡しながら口を開く。
「一度に上げようとするな。少しずつ上げろ」
「分かった」
その言葉を留意し、再び釣糸を放った。沈黙が降りる。穏やかな風が吹いていた。青空をゆく雲はゆっくりと流れている。心地よい静寂だった。
「……お前に聞きたいことがある」
不意に疾風が口を開く。水面から視線を上げると山吹色の双眸が男を見据えていた。
「お前は主に害を為す気があるのか?」
その眼差しを鋭く、男を射抜くようだった。赤い双眸とは異なる静かなそれは真実を見極めんとしている。その眼差しに男は問いかけた。
「お前は俺の言葉を信じるのか?」
疾風は答えない。男は更に言葉を重ねた。
「俺が嘘を吐いていないと言えば、お前はそれを信じるのか?」
男の言葉はそれ即ち穢れの鬼の、数多の命を奪い続けた悪鬼の言葉だ。もし、男が疾風や黒耀と同じような立場なら、そう易々とは信じられないだろう。
疾風は静かに口を開いた。
「物事を論で考えるのは人間のすることだ。野に在る者は己の目で見たものが全てとなる」
そう言って疾風は水面に目をやった。
「俺はこの五日間、お前を見ていて嘘を吐くような者ではないように思えた。それどころか、誰かを欺くことなど考えていないように見える。……俺は己の目を信じる」
視線の先が男に戻される。疾風は再び問いかけた。
「お前は嘘を吐かない。答えろ。主に害を為す気はあるのか?」
その瞳の奥に在るのは男への信頼ではなく、己を信じる孤高の光だった。気高く、強いそれを前に偽りなど太陽の下の朝霧に等しく思える。
男は僅かな沈黙の後、口を開いた。
「害を為す気はない。だが……」
「だが?」
言い淀んだ男に疾風はその先を語るよう促す。男は空を仰いだ。その目に映る景色は鮮やかな色彩に満ちていた。
「俺の力が、お前の主人を傷付けないとは限らない」
今も昔も、そしてこれからも。男は穢れの鬼であり、穢れの鬼は男が望めど望まざれど、その力を振るうだろう。社から解き放たれてもその呪縛だけは消えなかった。
しかし、疾風は眉一つ動かさなかった。
「……お前にその意思がないのなら、それでいい」
それだけ言って口を閉ざす。男は横目に疾風を見つつ、一つの疑問を投げ掛けた。
「お前の見ている俺そのものが、偽りだとは思わないのか?」
その瞬間、疾風の竿が震えた。疾風は一瞬だけ男を横目に見ると真剣な表情で竿を握り、釣糸を手繰る。さほど長くないはずの睨み合いがひどく長く感じられた。川の水面に銀色の影が映る。次の瞬間、銀色に光る魚が宙に跳ねた。
「……少なくとも」
釣り上げた獲物を魚籠に移しながら疾風が口を開く。
「今、俺の見ているお前が主に害を為さないのならそれで構わない。どちらにしろ、俺の為すことは変わらない」
その言葉に男は小さく、そうかと答えた。そして、三度目の沈黙が降りる。それを破ったのは、やはり疾風だった。
「……一度、竿を上げてみろ」
神妙な表情の疾風に促されるがまま、竿を上げる。そこに餌は無かった。
「食われたな」
疾風が静かに現状を分析する。
「そうだな」
男は静かにそれを肯定する。
餌の無くなった釣り針を柔らかな風が揺らしていた。
マイペースが二人……。会話が辛い。
何だかんだ言って従者三人組は姫様に甘いと思うんだ。




