四、月
西日が傾き、山の端へと落ちていく。迫り来る夕闇を前に男は屋敷の庭で立ち尽くしていた。
今日一日、緋衣の仕事を手伝った後は何をするでもなく、ぼうっとしていた。縁側に腰かけ、何に縛られることもなく、風に吹かれていることは奇跡のように思えた。それゆえに、今日という日の終わりが恐ろしかった。目を閉じれば雨の匂いや、暗い庵が鮮明に思い出せる。
夕闇は徐々に、確かに庭を侵食していた。そうっとその手を伸ばし、あらゆるものの輪郭を溶かして己の内に取り込んでいく。程なくして、自分も飲み込まれるだろう。そう思うと身震いがした。山の端はまだ明るい。しかし、その朱色もゆっくりと崩れていき、呼び止めることはできなかった。
「そんなところでどうした、客人」
不意に背後から声がかかった。見れば、縁側に梓が立っている。梓はひょい、と身軽に庭先へ飛び降りると思い出したように口を開いた。
「ああ、そう言えば緋衣の手伝いをしたそうだな。お前のお陰で今日は楽が出来たと喜んでいたぞ」
「……そうか」
少しだけ気が楽になった。誰かの役に立てるということは男が思っていたよりずっと温かな心地のするものだ。それが血生臭いものでなければ尚更だった。
梓は男の隣に立つと同じく山を見上げた。
「夜が来るな」
「……ああ」
ぼんやりと答え、男は目を細める。気付けば拳を握りしめていた。夜の闇と共に断末魔の悲鳴が、肉を抉った生々しい感触が、血の匂いが這い寄ってくるような気がした。一瞬、胸の鼓動が一際強くなる。まるで、その身の内に在る穢れの鬼が呪詛を求めているようだ。
男は日中、自分の視界が変質したことを思い出した。穢れの鬼はいつも、すぐそこに在る。薄氷の向こう側で男を見つめている。その心の動きに敏く反応する。男の心だけではない。人の呪詛に、誰かを害せという声にひどく忠実だ。
「どうした、客人。顔色が悪いぞ」
その顔を覗き込んだ梓が訝しげに訊ねた。男は口を閉ざしたまま、山の縁を見る。朱色の光は縁を描くのみとなっていた。
夜はすぐそこに来ている。男は気持ちがずん、と重くなるのを感じた。
「客人は夜が嫌いか?」
続けざまに梓が問いかける。男は暗澹とした気持ちを抱えたまま頷いた。
「良い思い出がない」
夜は穢れの鬼に捕らわれた無力な自分を思い出させる。そこにいるのは人の呪詛に突き動かされるがまま殺戮を繰り返す禍つ神だ。
「そうか。私は夜が好きだぞ」
そう言って梓は空を仰いだ。そして、その一点を指さす。その指の先を追えば、そこには闇の中で輝くものがあった。
月だった。弓形の三日月が弱いながらも淡い光を纏い、空へ上っている。それは闇の中でも確かな光だった。
「お前のその、良いものではない思い出とやらは知らんが、あの月を肴に一杯やれるのなら私は夜が好きだ」
そう言って梓はからからと笑う。男はその笑顔を眺めながら口を開いた。
「お前には前しか見えないように思える」
「お前には後ろしか見えていないように思えるぞ」
ぴしゃりと言い返して梓は再び月を見上げた。三日月は夕闇に抗うかのような朱色の光が弱まるにつれて、煌々と輝き出す。
「失ったものを嘆こうと、過ぎたことを悔やもうと、何も変わりはしないのだ。ならば過去に囚われず、月の満ち欠けを楽しみ、次の朝日を待てばいい」
朱色の光は崩れ去り、月の青白い光がその姿を照らした。その横顔は静かだった。まるで、静かに満ち欠けを繰り返す月のようだ。その顔はきっと、あの老婆のように泣き崩れたことも、あの男のように苦痛に歪んだこともないのだろう。それほどまでに彼女は強く、強いがゆえに本当に失ってはならないものを失わずに来たのだろう。
「……お前は何も失っていない」
男は呟くように言った。そこには果て無き絶望と渇望の入り雑じった強い羨望がある。
「俺は、例え失ったものが戻らずとも」
満ちる月が戻らないように。
「それに焦がれる」
静かな呟きの後、微かな笑い声が男の耳に届いた。見れば、梓はくつくつと小さく笑っている。
「……何がおかしい」
僅かにざわついた心で男が問いかけた。すると梓は笑うのを止め、穏やかに微笑んでみせる。
「何も失わぬ者などないさ」
くるり、とその背を向ける。
「きっと、お前が失ったものは取り戻せるだろう。取り戻せんものなど、そうそうありはしない」
縁側に上がった梓は微かに男を顧みた。その横顔はどこか寂しげで、儚く見える。思ってもみなかった表情に男は思わず息を呑んだ。その背中が少し小さく見えた。
「私にも、失ったものがある。それは、私が私である限り、決して取り戻せんだろうな」
彼女の遠い目の先にはほぼ闇に染まりつつある山並みが映っていた。しかし、その目は山ではなく、山の向こうに崩れ去った落陽を見ているように見える。
男は月を見上げた。やはり、男の失ったものは取り戻せそうにない。水鏡と薄氷の向こう側で鬼が笑う。
空は夕闇から暗闇へと移り変わっていた。
彼らは互いに手の届かぬものに恋い焦がれる。
果たしてそれは本当に手の届かぬものなのか。
もしかするとそれは存外、すぐ傍にあるのかもしれない。




