三、信
覗き込んでみるとその井戸は深く、冷えた空気が暗い穴の中に満ちていた。
男は縄のついた汲み桶をその穴の中に降ろし、水を汲み上げる。ずん、と重い手応えが桶の中に水が満々とあることを知らせた。
汲み上げた水を別の桶に移す。透明なそれは今朝の小川から流れ込んだものなのだろうか、と男は思った。あの数多の命を抱いているという、それ自身が命であるという森から流れてきたのだろうか。ならば、この水も命なのだろうか。男は井戸の縁に手を着き、耳を澄ませてみた。森で聴いたのと同じ音が聴こえた。
(自ずと分かる、か……)
梓の言葉を思い返すも、今の男にはやはり分からない。
命。儚く、脆く、男はその幾多を奪い、永い時の中で執着してきた。それと森はどうにも結び付かなかった。
「貴様……。そこで何をしている?」
不意に背後から険しい声が聞こえた。顔を上げ、振り向くとそこには黒耀が立っている。その様はまるで、侵入者に唸り声を上げる番犬のようだった。
「……水を汲んでいた」
男が素直にそう答えるとその眼光の鋭さが増す。しかし、男はそれを臆することなく受け止めた。心が麻痺してしまったかのように何も感じない。その間も黒耀はじりじりと歩み寄りながら、爛々と光る眼で男を睨んでいる。
「何故、貴様が水を汲むのだ。下手な言い訳は為にならんぞ」
その声色は男の言動、挙動、その全てを疑っているかのように硬く、刺々しい。一方、男は淡々と平静に口を開いた。
「緋衣の手伝いをしている。水を汲んでくるよう頼まれた」
偽りを語る理由もない。だが、黒耀の眼光は更に鋭くなり、醸し出される敵意も徐々に濃厚になる。赤い双眸は燃えるようだった。
「嘘を吐くな! 井戸に毒でも流していたのだろう!」
黒耀が吠える。
「何故だ。俺にそんなことをする理由はない」
男が答える。その刹那、赤い双眸が光を帯びた。それは暗く、冷たく、刺々しい、抜き身の刃を彷彿とさせるような色の光だ。それを男はよく知っていた。
「貴様のように血の匂いを纏った悪鬼は理由もなく人を殺す。……だが、俺のいる限り貴様の好きにはさせん!」
その言葉に次いで、刺すような敵意が爆発的に高まった。次の瞬間に襲いかかられたとしても何ら不思議でない。この黒耀という人ならざる者なら一撃で男を殺すことも可能だろう。社から解き放たれたあの日、目前に突き付けられた死が再び男の前に現れる。その瞬間、男の視界は変質した。
景色が全て灰色に見える。晴れ渡る青空も、そこに浮かぶ白い雲も、茅葺きの屋根も、杉の柱も、全てが色を失う。鮮明に映るのは目の前の人物だけだった。本能が問いかけてくる。あれは敵か、否か。
(……敵)
己を拒む者、排斥する者、殺す者。ならば、己が生きるためにあの敵を退けねばならない。そんな思考が男の頭を満たしていく。
その時だった。
「黒耀さん! そこまでです」
有無を言わせぬ強い声が制止をかけた。その瞬間、男の視界は瞬く間に色を取り戻していく。先程までの思考は水泡が弾けるように消え、男は我に返った。振り向けば、そこには赤い着物を纏った緋衣が立っている。その表情は険しく、黒い瞳には強い光を宿し、黒耀を見据えていた。
「お客人が戻らないのを何事かと思って来てみれば、これはどういうことです?」
「すまない」
謝罪の言葉を口にしたのは黒耀、ではなく男だった。その場の空気が固まり、黒耀は訝しげに、緋衣は目を丸くして男を見つめる。
「迷惑をかけた」
「い、いえ……。あの、原因は黒耀さんでしょう? あなたが謝ることはないのですよ?」
男の謝罪に戸惑いながらも緋衣が答える。すると、口を閉ざしていた黒耀が吠えた。
「何を言う! 大体、お前と疾風は暢気が過ぎるのだ! もう少し警戒心を持ったらどうだ!」
荒れ狂う怒号。普通の女ならば、ここで踵を返して逃げ出していただろう。最悪、泣き出していたかもしれない。しかし、彼女は例外だった。
緋衣は余裕たっぷりに微笑んで見せる。
「警戒心と過保護さなら黒耀さん一人で事足りてます。私と疾風さんまであなたのようになったら、姫様はげんなりなさると思いますよ?」
口元は笑っている。だが、目は笑っていなかった。そして、口元からその笑みが消える。
「前にも申しましたように、この方は姫様の客人です。この方への無礼は姫様への無礼。そうは思いませんか?」
主人への無礼。その言葉に黒耀はぐっと低く唸った。悔しげに唇を噛み締めながらもその眼差しは鋭いまま、男を見据えている。
「……いや、やはり貴様は信用ならん!」
暫しの沈黙の後、黒耀は言い放った。
「梓様がお許しになろうとも、俺は貴様のような悪鬼を断じて認めん! 僅かでもあの方へ害をなそうものなら、その喉笛食い破ってくれる!」
そう言うが早いか、黒耀は踵を返し、足早に立ち去る。緋衣はその背中を呼び止めようとしたが、しばらく手を宙に伸ばし、諦めたように男を見た。
「申し訳ありません……。後できちんと叱っておきます。黒耀さんは姫様に対して少々、いえ大分過保護なのです。本当に、申し訳ありません」
深々と頭を下げる緋衣に男は首を横に振った。
「気にしていない」
答えを口にして男は気付く。あの時、黒耀の双眸を彩った光。あれは嫌忌、侮蔑、敵意、殺意などと呼ばれるものだ。男にとってはひどく見慣れたものだった。しかも、今までのことを考えれば先程のことはまだ可愛いものだ。
そう思えてしまう自分を男は少し笑った。そして、ふと思い出す。
「……ああ。水が必要だったのだな」
すると緋衣が堪えかねたようにぷっと吹き出した。その様子に男は首をかしげる。
「何か、おかしなことを言ったか?」
「いえ……。あなたは真面目な方ですね」
そう言って緋衣は目を細め、鈴を転がすような声で笑った。男は首をかしげたまま、水の満ちた桶を持ち上げる。それから、思い出したように口を開いた。
「……お前は不思議だ」
「そうですか?」
こてんと緋衣は首をかしげた。男は無言のまま頷く。
男からすれば黒耀が正常で、緋衣が異常だった。その表情には一切の嫌悪も恐れもない。男を、穢れの鬼を信用に足る存在だと無条件に思っているようにさえ思える。
一体何故。そう思いながら男は桶を片手に下げ、勝手場まで歩き出した。
下書きが出来てても清書が追いつかないぜ!
清書するたびに下書きが減ってくぜ!
……ピンチです。




