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穢鬼ノ記  作者: 月神 皇夜
第二章 その存在を示すもの
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一、森




 目が覚めるとその視界の明るさに、はっと息を呑んだ。それから一拍置いて自分の現状を思い出す。男は布団に横たえていた体を起こした。ひゅるりと朝の冷たい空気が隙間に滑り込む。布団で眠ったのは生まれて始めてだったかもしれない。そのせいか、妙な心地だった。


「む……」


 目覚めたばかりの頭は重く、その重さに負けて体が前のめりに傾く。すると、長い髪が視界を塞いだ。それは見慣れた景色だ。目を閉じれば暗闇がやって来る。あの社と何も変わらない。しかし、男の耳に堂の中では聞こえるはずのない音が届いた。


(足音……)


それは段々と近付いてくる。そして、男のいる部屋の前でぴたりと止まったかと思うと、勢いよく(ふすま)が開かれた。


「客人。目覚めているか?」


目を開けばそこにはこの屋敷の主、四季宮 梓が立っている。彼女は男を見ると小首を傾げた。


「なんだ、まだ寝ぼけ(まなこ)だな。もう日は昇っているぞ」


そう言って梓は笑う。男はまだ重い頭でその顔をぼんやりと眺めていた。それから、ぐらりと首をかしげる。


「……何か用か?」


「散歩へ行くぞ」


身支度を済ませろ、というその表情からは男がその申し出を断るとは思っていないことが見てとれた。男にも断る理由がないが、かなり強引なように思える。


(これが、あの三人を惹き付ける何か、か……?)


今一ぴんと来ない。しかし、その顔を見続けても答えは出なかった。


「どうした。寝ぼけているのか?」


訝しげに梓が問いかける。男が首を横に振ると長い髪が共に揺れた。


「ならば支度を済ませ、門まで来い。早くしないと朝餉(あさげ)に間に合わんからな」


そう言い残して梓は襖を閉じた。足音が遠ざかり、再び静寂の訪れた部屋で男は窓の外を見た。

 白く、清らかな朝の光は柔らかに外界を描いている。男が焦がれた美しい世界だ。自由があると、“生きる”ことが出来ると信じた世界だ。

 気付けば、男は枕元に置いた紐に手を伸ばしていた。


 朝の空気は冷たく、甘い。微かな水を含み、森の香りを孕んでいる。常に陰気でかび臭かった堂の中とは違う、清浄なものだった。


「うーん。清々しいな!」


晴れ晴れとした様子で先を行く梓はぐうっと体を伸ばす。そのすぐ側には疾風(はやて)が控えていた。

 その後ろ、少し離れたところを男は歩いている。何の枷もなく、この外界を歩くことには慣れない。気後れした心は男の歩幅を縮めていた。


「主。どこまで行かれますか」


 疾風が問いかける。梓は足を止めると考え込む様子を見せた。自然と男の足も止まる。


「そうだな……」


訪れた静けさの中で、微かに冷やかな音が聞こえた。男は何の気なしに周囲を見渡し、音の源を探す。すると、梓と目が合った。


「気付いたか?」


にっと笑って梓は颯爽と歩き出した。


「小川まで行こう!」


高らかに目的地を宣言する。その言葉に疾風は無言のまま従い、その背中に続いた。男も口を閉ざしたまま、その二つの背中を追う。梓が見せた笑みの意味するものが何なのか。その胸は微かに高揚していた。


 雑木林の中、左右から生い茂る草に隠されそうなほど細い道を歩いている。木々の枝とその茂みが影を作り、男は日の下にいるよりも、こちらの方が幾分か落ち着く自分を小さく笑った。その間も水の音は(ささや)くように聴こえている。


「長雨が止んで暫し経ったのだから、恐らく大丈夫だろうと思うのだが……」


 独り言のように梓が口を開いた。その足取りは行く先にあるものに向かって()いているようにも見える。そのため、彼女一人が先行するようになっている。一体何があるのだ、と男が口を開こうとした時、梓が歓声を上げた。


「おお! これだ、これだ!」


 光の中で振り向いた笑顔は満面の笑みだった。そして、早く来いと急かすようにばたばたと手招く。男は小さく首をかしげた。すると、梓は耐えかねたように


「いいから! 早く来い!」


と声を上げた。男はそっと疾風の表情を盗み見る。特に主人を戒める様子はなく、逆に無言のまま男を促しているように見えた。

 男は恐る恐る梓の方へ歩み寄る。そして、光の中へ足を踏み入れると思わず感嘆の息を溢した。

 山から降りてくる清水が苔むした岩の積み上がった、背の低い滝を滑って小さな川へと注ぎ込む。澄んだその水は朝日を受けて輝きながら、森の緑を映していた。その川辺では背の高い草に埋もれながら、名も知らぬ深い紫の花が咲いている。森の木々は森閑としながら、その風景を包んでいた。


「何か特別、目を惹くものがあるわけではないが中々良いものだろう?」


 その言葉はどこか遠くに聞こえた。今、目の前にある景色。生命力を満々と湛え、真っ白な空気を生み出している光景が男を捕らえて離さない。

 男は誘われるように一歩を踏み出した。その川辺に膝を着き、紫の花を見下ろす。その花は小さくも、確かにそこに生きていた。


「それは菖蒲(しょうぶ)という」


 見上げると、すぐ側に梓がいた。笑みを浮かべ、しゃがみこむとその指先で花に触れる。


「見た目には可憐だが中々強かなものだぞ。前の長雨で流されはしないかと気を揉んでいたが、この通りだ」


そう言って彼女は笑った。それから風景全体を見渡し、目を細める。


「ここはいい。森というものがいかに偉大で強く、数多の命を抱いているか思い出させてくれる」


彼女は立ち上がり、宙を掴むかのように手を伸ばした。その指先でそよ風が遊ぶ。梓はそれすらも愉快だと言いたげに笑った。そして、その笑顔を男に向ける。


「知っているか? 森は数多の命を抱くと共にそれ自体が命なのだ」


「……知らん」


男がすっぱりと答えると梓はけらけらと笑った。恐らく、ここにあの黒耀(こくよう)という男がいればまた牙を剥かれたことだろう。しかし、今ここにいる疾風という男は静かに佇んでいた。


「ずいぶんはっきり答えるな。気持ちがいい!」


そう言って梓はくるりと踵を返した。ふわり、とその袖が揺れる。


「そろそろ帰るとしよう。朝餉に遅れる」


すたすたと歩くその背中はすでに意識が朝餉に向いていることが如実(にょじつ)に表れていた。どうやら彼女の破天荒に付き合わされたようだ、と男が思ったその時、彼女の足が止まった。


「……森については」


くる、と振り向いて悪戯っぽく笑う。


(おの)ずと分かるだろう」


それだけ言って彼女はすたすたと帰路を辿る。控えていた疾風もそれに続いた。男はその二つの背中を見つめ、暫し立ち尽くす。


(森が命を抱く)


 この場を守護するかのように生い茂るこの森は確かに生命に満ちているように思えた。いつか、自分もここで“生きる”ことが出来るだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら森の音に耳を傾けた。


第二章突入です!

はてさて、姫様は一体何がしたいのか……。お楽しみに。

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