十、梓
男は梓の申し出を受け入れた。
彼女の言う通り、行く当てなど無い。それに、出ていくと言い張ったところで屋敷の主がそれを認めるとは思わなかった。
しかし、それも忌まわしい鬼の力が暴れださない限りは、だ。もう傷付けるのも、傷つけられるのも、男は辟易していた。
「申し訳ありません。お気を悪くなされませんでしたか?」
一歩先を歩く緋衣が男の方を顧みながら、本当に申し訳ないといった様子で口を開いた。男は無言のまま首を横に振る。すると緋衣はほとほと困ったように表情を曇らせた。
「姫様は少々我が儘と言いますか、不器用と言いますか……」
そう言って彼女は深いため息を吐く。
「本当はあなた様の身を案じていたのだと思います。それが、あんな言葉になってしまって……」
そのため息の深さは、まるで娘を案じる母親のそれだ。男は口を閉じたまま、先程のことを思い出し、その苦労の重さを慮っていた。
申し出を受け入れた男に、梓は部屋を与えるから好きに使えと言った。そこまではいい。ただその後のことを全て緋衣に丸ごと投げて寄越したのだ。そして、「眠い、寝る」の一言を残して自室に引き上げてしまった。なかなか破天荒な性格のようだ。
「当主と言えど、まだ至らないところが多いのです。どうか、ご容赦ください」
そう言って緋衣は小さく微笑む。男はその笑顔を見つめながら、ずっと胸にわだかまっていた疑問を口にした。
「四季宮家、という家は一体何なんだ」
「はい?」
唐突な問いかけに緋衣は立ち止まり、首をかしげる。男も同じく足を止め、真っ直ぐに緋衣を見た。
「そんなにも力を持った一族なのか?」
「そう、ですね。何代にも渡り、皇家に仕え、四神衆を統括してきたのですから中央における発言力は他の追随を許しません」
その答えに男は首を横に振る。男の言っていることの真意はそんな、人の世界でのみ通用するような力のことではなかった。
「あの黒耀、疾風という者たち」
圧倒的な力で猟犬を威圧した黒い男とその名の如く、疾風のように現れ、消えた鋭い眼光の男。
「それに、お前も」
今、目の前に立つ赤い女。
「もし、その四季宮家。いや、あの梓という娘に相応の力がなければ、お前たちほどの存在が人間に従うとは思えない」
男の言葉に緋衣は少し驚いたような顔をした。それから、少し照れくさそうに微笑む。
「お気付きでしたか」
「あの二人はすぐに気が付いた。だが、お前は少しかかった」
男がそう答えると緋衣はくすくすと笑って目を細めた。
「お二人は人の姿をしていても、人らしくしようとはあまり考えていませんから。私は自然と人らしくしてしまうのですけれど」
確かにその立ち振舞いや仕草は人間らしい。完璧すぎるほどに人間らしかった。それはあの破天荒の側だと相まってだろう。
緋衣は改めて男に向き直ると洗練された所作で一礼した。
「お察しの通り、私や疾風さん、黒耀さんは人ではないものです。そして、四季宮の一族は代々、この国を統べる皇家に仕える術者の一族。中でも現当主でいらっしゃる姫様は、この国随一の術者でございます」
なるほど、と男は呟いた。それほどの実力者であるならこの三人を従えていても不思議ではない。ただ、元々は自由であったはずのものが誰かの手の中にあるのはひどく悲しかった。それが自分の過去と重なって見える。
その時、ふと緋衣が口を開いた。
「ずいぶん、悲しげな目をするのですね」
男ははっとした。知らぬ間に思っていたことが顔に出ていたらしい。緋衣は優しげな微笑を浮かべたまま、言葉を続ける。
「……私どもが悲しく思われますか?」
その問いかけに男は言い淀んだ。誰かを哀れむことができるほど、男は強く生きてきたわけではない。哀れみは勝利者のみが持つ傲慢だ。
男は小さく首を横に振った。
「……自由を失うことが、悲しいと思う」
自由を失えば、己の生と死も失われる。男の知る限り、それが一番悲しく、苦しかった。
「それは悲しいですね」
そう言って彼女は、その言葉とは似つかない穏やかな微笑を浮かべる。そのあまりの穏やかさに男は目を疑った。しかし、やはり彼女は、見間違いなどではなく、穏やかに笑っている。
「私も、疾風さんや黒耀さんも、決して自由を失ってなどいないのです」
緋衣はすうっと視線を男から縁側の向こうに広がる空に放った。そこには小鳥がさえずりながら、空を舞っている。
「皆、姫様に惹かれてここにいるのです」
彼女は視線を戻し、にこりと笑った。そして、参りましょう、と踵を返す。男は口を開くことなくその背中を追いながら、緋衣の言葉を思い返していた。
三人の人でない存在。それを惹き付ける少女。あの梓という人間の何に皆、惹かれているのだろう。そう考えた時、男の脳裏に過ったのは「世界は美しい」と断言したあの瞳の強い光だった。
姫様の正体発覚! の後は三人の正体も発覚! です。
彼らも彼らでなかなか灰汁の強い面々ですが、どうぞ温かく見守ってやってください。




