九、逗留
男は戦慄した。それと同時に今の今までこの少女に気を許した自分がひどく愚かしく思えた。自分が何者か忘れたのか、と水鏡の向こうの鬼が囁く。
一方、梓は顔色一つ変えずにやれやれと溜め息を吐いた。
「そう血走った目を向けるな。何もしやしないさ」
「……お前は狩人なのか」
低く、唸るように問いかける。梓は静かに狩人か、と呟いた。
「……そう、だな。私は狩りを拒んだ狩人だ」
そう言って小さく笑う梓はどこか詰まらなそうだった。盃の中の酒を揺らしながら、言葉を繋ぐ。
「お陰で弓も矢も奪われ、翼を失った鳥と等しくなった」
くつくつと笑うその表情には小さな影があった。今まで男が目にした彼女のどれとも違うものだった。しかし、それはすぐに鳴りを潜め、にやりとした不敵な笑みが現れる。
「少なくとも、お前の敵ではないさ。だからそう怯えた目をするな」
その言葉に男は盃を覗き込んだ。水面に映るその目は敵対心にぎらぎらと輝いて見える。男は顔を上げ、その目で梓を見据えた。
「怯えているように見えるか」
「ああ、見える」
彼女には一瞬の迷いも、男の目を恐れる様子もなかった。そして、真っ直ぐに穢れの鬼を見返す。
「お前の目は常に怯えている。どれが敵か、どれが味方か。何が危険か、どこが安全か。一時たりとも休まず、それを見定めようとしている。無邪気な目だ」
「……無邪気、だと?」
無邪気、邪気が無い。穢れを纏う鬼である男には最も縁の無い言葉だった。しかし、梓は至極真面目な様子だ。
「敵か否か。危険か否か。白か黒か。そんな対の両極で計れるほど世界は単純でない。それを知らんお前は無邪気だよ」
彼女の言葉に男は困惑した。それは今まで男が持っていた世界の姿と対立している。
男の知る世界は光だ。光に満ち、男は闇の中からそれに焦がれていた。しかし、光は光だからこそ闇を許さない。光があれば必ず闇はある。だとしても、闇は光の中では生きられないのだ。
「……お前の目には、世界はどのように映っているのだろうな」
不意に梓が呟くように口を開いた。その目はどこか遠くを見つめている。そして、男に焦点を合わせると
「なぁ?」
と首をかしげた。男は口を閉ざしたままその眼差しを受け止める。すると梓は、ふっと表情を和らげた。
「私の目から見て、この世界は美しいのだ」
そう言って梓は微笑む。我知らず、男は口を開いていた。
「……この世界は美しい」
光に溢れ、色鮮やかで、様々な音に満ちた世界。僅かしか知らないそこを男は美しいと断言できた。狩人に捕らえられる直前の空の青を覚えている。それだけで世界は美しいと思えた。
「美しいがゆえに、俺を許さない」
「何故だ」
理解しがたい、と言いたげな声音だった。その表情はひどく険しい。
「……この世界は光に溢れている。闇が生きることは出来ない」
男はそれが当然の真理だと思った。しかし、梓はそれに対し、ふんっと鼻を鳴らす。そして、ふとその視線を左の襖に向けた。すると、その意を汲んだように緋衣が動く。男の目も自然とそちらを向いた。
それが開かれた瞬間、光が雪崩込んできた。その眩しさに男は目を細める。しかし、眩しさの先にあったものに今度は目を見張った。
小さな中庭だった。
白い砂利が敷き詰められ、日の光を受けて輝くその場所には何か特別な光が降り注いでいるように見える。しかし、何より男の目を引いたのは赤い花だった。
青々と繁る一本の木から落ちたのであろうその花は血のように赤く、砂利の白によく映えている。その光景は男の息を止めるほど鮮烈だった。
それは美しかった。
「これはな、私の自慢の庭だ」
音もなく立ち上がり、彼女はその庭へと歩み寄る。そして、素足のまま砂利に降りるとその花に手を伸ばした。
「この花は、白によく映えるだろう」
そう言って梓は拾い上げた花を男に向かって差し出す。確かにその色が少しくすんで見えた。
「この花が砂利の白に映えるように、夜の闇に星や月が輝くように、夜明けの光が暗闇を裂くように。何かがあって、もう一つが際立つ」
さっと梓が手の平を返すと赤い花は白い砂利に落ちる。その赤はやはり、美しかった。
「世界は美しい」
庭の主は空を見上げ、口を開く。男はその姿を食い入るように見つめていた。
「全てが全てを拒まず、そこにあるから美しいのだ」
その言葉と共に真っ直ぐな眼差しが男に向けられる。今の言葉を信じて疑わない、迷いの無い眼差しだった。
「美しいだろう?」
確かめるように投げ掛けられた言葉に男は頷きかけた。しかし、その脳裏を穢れの鬼の荒れ狂う姿が過る。男は無言のまま、梓から目を反らした。
「……俺は、光の中では生きられない」
それはやはり、世界が美しいゆえにだった。
「……そうか」
梓はただ一言、そう言って中庭から座敷へと上がる。そして、上座に戻ると男を見据え、口を開いた。
「よし、決めた」
「何を、です?」
あまりに唐突な宣言に緋衣がその内容を訊ねる。すると梓は真っ直ぐに男を指差した。
「お前、どうせ行く当てなどないのだろう? ならば、しばしここへ留まれ」
まるで決定事項のような突然の申し出に男は思わず呆然とした。一方、言い出した張本人は緋衣に突然何を、と言い寄られているが決定を覆すような様子は見せない。
男は唸るように口を開いた。
「何故だ。お前は俺が何者なのかを知っているはずだ」
「ああ、知っている。お前は私が招いた客人だ。それに対して逗留を勧めて何の障りがある」
飄々と言ってのける彼女の隣では緋衣が頭を抱えている。男は無言のまま、彼女を見据えた。
「なんだ。行く当てがあるのか?」
その問いかけに男は首を横に降る。そんなものがあるはずない。この世界は穢れの鬼を拒んでいるのだ。
「ならば、何の問題もないだろう」
そう言って彼女は再び手酌で酒を注ぐ。男は警鐘を鳴らすように語りかけた。
「俺は穢鬼。呪詛を纏う禍つ神だ」
「だからどうした。我が名は四季宮 梓。遥か古よりこの世界を守ることを使命とした一族の当主なのだぞ。高々お前ごときに遅れを取るはずか無い」
「……俺は、俺自身が望まずとも禍を呼び寄せる」
自信に満ち溢れ、その警告を笑い飛ばそうとする梓に対し、男はすっと目を伏せた。その身が鬼となろうとも、心はまだ鬼になりきれない。少なからず恩のある彼女に禍をもたらすのは心苦しかった。
しかし、それでも少女はからからと笑う。
「上等ではないか!」
そう言って梓は酒を飲み干す。
「この鄙で欠伸を噛み殺しているくらいなら禍の一つでもやって来た方がいい。何が来ようとも返り討ちだ!」
不敵な笑みを浮かべ、高らかにそう宣言する。男はその様を呆然と見ていた。未だかつて、このような人間がいただろうか。穢れの鬼を前にしてここまで堂々と、その存在を恐れ忌むことなく、逆に禍を返り討ちにするなどと言った人間を見たのは男の、鬼としての生の中で、初めてのことだった。
「この世界は美しい」
絶対の真理を口にするかのような口ぶりで彼女は言う。
「美しく、何者も拒みはしない」
その瞳の奥で、何か小さな光が灯ったように見えた。
「そのことを教えてやる」
その小さな光は揺らぐことの無い、強い光だった。
世界が美しいゆえに、己は拒まれるという穢れの鬼。
世界は何物も拒まないゆえに、美しいという少女。
二つの世界の姿はどこへゆくのだろう。




