透明な人
親に恵まれない子供は不幸だとよく言われる。
かつては私もそう思っていたのだ。親に恵まれない子供より、親に恵まれた子供の方が幸せだし、素直に育つに決まっている。親のせいだ、こんな家に生まれなければと、ずっと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。私は何もない、真っ白な空間でふと思う。
不幸だったのは、本当に子供だけだったのだろうか。違う。きっと、父親も、母親も、不幸だった。もし子供が、親でさえ変えてしまうようなすごい人間であったなら、不幸は幸福に転じていたのかもしれない。
とかなんとか、こんなことが思えるのは、あんなことになってしまった後だからなのだと思う。思わず苦笑いを零した。
周りは真っ白で、壁は無いように思われた。床はあるのかよくわからないが、私が立っている場所にだけは1m×1mくらいの白い四角い板のようなものがあるのが感覚的にわかった。というより、私が板の上に立っている感じだ。
私の親達も、世間一般から見たら、きっとだめでどうしようもない親だったのだろうと思う。父は会社をリストラされてから、お酒ばかり飲んで家族に暴力を振るっていた。母は1人働き、父にはただ平謝りして、ごめんなさい、もうやめてお願いと叫んでいた。私はその人たちの一人娘だった。
お酒を飲んで暴れて寝て、次の朝自分の汚した部屋が片付いていないと、また母を怒鳴った。アパートで狭いとはいえ、居間も台所も、働きづめの母に片付ける時間なんてあるはずなく、いつも汚れていた。
私は?
私は、何もしなかった。ただ、ご飯とお風呂の時以外は、嫌に整頓した、というより何もない奥の自分の部屋で体育座りをして、じっとしていた。父は私の部屋まで入ってきて、私もよく殴った。
急に、ふらつくような感覚に襲われた。地震のような感覚だったので最初はそうかと思ったけど、違った。私の乗っていた板が、上へ動き始めたのだ。
この板はいったい何なんだろう。わからない。
でも、なんとなく、この板が向かう場所は見当がついていた。私はまた苦笑いを零す。
私は制服の下には汚い服を着て、学校に行っていた。体操服も汚かった。もちろんのこと、貧乏だった。いじめられていた、というよりは、仲間外れだった。いや、空気。そうだ、空気だった。みんなが私に話しかけるのを嫌がった。汚かったからだろう。
でもそれは、すごく幸せなことだったと思っていた。だってそれは、空気であることは、私にとっては無害で、むしろ理想の存在だったのだ。私は空気になりたかった。死ぬのは怖かったから。
この世界は、人並みであることが集団で生きるために必要らしい。人並みに清潔。人並みにお金がある。人並みに明るい。人並みに空気が読める。人並みに。
そこから逸脱した人間は、阻害される。
でも、もうそんなことどうでもよかった。この白い空間を見ていると、心が落ち着く。ここには今、私しかいない。私は人間にも、空気にもなれる。1人なら。
そんなことを思っていると、とん、と軽い振動が私に降りかかった。
止まった。板が止まったのだ。
私は、あたりを見た。左の奥の方に、階段が見えた。白い、下手をすれば見落としてしまいそうな、背景に同化した、長い長い階段だった。
なるほど、ここからは、自分の意志で行けということか。
なんだかそれを考えると、少しだけ胸が痛くなった。
もし私が、親でさえ変えてしまうようなすごい人間であったなら。私はこんなことにはならなかっただろう。
でも、もう遅いのだ。もう、終わってしまった。もう、先がない。
きっと階段を登れば、この記憶は忘れてしまうのだろう。私はまだ、覚えている。
あの時、私は台所に行って、そこに置かれた椅子に座って夕飯を食べていた。父は居間でお酒を飲んでテレビを見ていて、母は仕事と仕事の間の時間で、父の散らかしたごみを片付けていた。私はそれを見て見ぬふりをして、居間と台所の間のドアを閉めた。
一家3人が、久しぶりに集まっていたんだ。
また怒鳴りだした父の声に、私は耳を傾けずに、ただ黙々と夕飯に出されたレトルトカレーを食べていた。もう関わらないようにしようと、決めていた。それは逃げていただけだと、今ならわかる。
父が母を殴った音が、居間から聞こえた。母が叫ぶ。やめて、やめてと。
何も思わない。楽しくないけど、悲しくもない。笑わないけど、涙も流さない。それが1番いい。
そう思って、次の一口を掬おうとした。そのとき。
台所と居間の間のドアが開いた。父だ。
また殴られる。
そう思ったのだが、父は私をスルーして、私の後ろの流しから、何かを取った。
包丁だった。
私は階段の前まで歩いてみた。
階段は、見上げるほどに高かった。どれだけ登れば、終わりはくるのだろう。
そして階段もこの空間も、本当に白かった。白もいいかもしれない。とても綺麗だ。
私は空気になりたい、なんて思っていたけれど、私はもう透明だったのだと思う。でも綺麗に透き通っているとかそういうのじゃなく、例えるならそれは、中身のない箱の中の虚無な空気の色、だ。
私は空っぽだった。
私は戦うことを放棄した。私は助けることを放棄した。私は笑うことを放棄した。私は向上心を捨てた。私は理想論を捨てた。私は逃げた。
それはみんなの首を絞めるとわかっていたのに。
最後の瞬間のことも、覚えている。包丁を私に振り上げた父を、目を見開いて見ていた。紗絵、逃げて!と、叫ぶ痛い母の声がした。父の顔は、覚えていない。包丁にばかり目がいっていた。
怖かったけれど、痛くはなかった。きっと、一瞬で死ねたのだろうと思う。それはすごく、運がよかったのだろう。
私は透明だった。でも、私は存在していなかったわけじゃない。
私だけじゃない。きっと、父も母も、不幸だった。私は、幸せにしてあげられなかった。
今は、酔いの醒めた父と疲れ顔の母が、泣いているかもしれない。後悔しているかもしれない。
もし私が戦えていたなら?もし私が助けていたなら?もし私が笑おうとしたなら?もし私があきらめなかったなら?
そんなことを考えても、意味がない。もう、終わったのだ。
私は、階段に足をかけることにした。1段登る。自分が少し浮いたような気がした。
また私は、あの世界に行けるだろうか。
もし行けるなら、私は今度は、誰かを人並みに幸せにしてあげたいと思う。今度は、もっといろいろなことをしてみたいと思う。そうだ、今度は、3人で人並みの、普通の家庭を作りたい。そうだ、そうしよう。今度は、逃げずに。
「さようなら、紗絵」
私は、声を出してみた。その声はもう、懐かしく感じられた。
透明な私は、もう1歩踏み出した。