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「…………」
あちゃー、むっすー、ってしてるー。
お姫様は野菜炒めを前にむっすー、としていた。
テーブルに置かれた野菜炒め。その前にはイスに座ったお姫様。お姫様からはちゃんとテレビが見えるようにしてある。というか、やっぱり髪長いな。イスに座っても床に届いている。
「じゃあ、召し上がれ」僕は言った。
「ふざけるな!」怒鳴られた。
「何だこれは!」いや、何って言われても「野菜炒めだけど?」としか答えられない。
何でこんなにお姫様は怒っているんだろう。昨日、チープなものは駄目みたいなこと言ってたから、野菜炒めにしたのに。昨今の物価の値上がりの中、野菜炒め。どう考えてもチープではない。高級だ。つまり……高級って、英語でなんだったっけ? いや、英語にする必要はないんだけど、チープって今まで言ってきたから、少し違和感を覚えた。けど、僕は日本人だからいっか。にほんばんざーい。
今はそんな話は関係ないな。とりあえず、お姫様のご機嫌を取らなくちゃ。
「野菜炒めだってことなんて、見ればわかる! 私の顔についているこの二つの球体は眼球だ。他の何でもない。そんなことはわかっているだろう! 今私が言いたいのは、何で野菜炒めか、ということだ!」
いや、正直に言うと、お姫様は野菜炒めを知らないかもしれないと思ってた。というか、知らないと思ってた。僕に誘拐されるまで、そんなものは食べたこともなくて、僕の一ヶ月の生活費を軽く超えるほどの値段のものを毎日食べてると思ってた。
だけど、案外普通のものも食べているようだった。僕たちと変わらないようなものとまではいかないけれど、それでも予想よりは安いものを食べていた。……それでも、家にシェフ的な人はいるらしい。まあ、お姫様は家政婦のようなものって言っていたけど。
「私は寿司を食べたかった! それなのに、なんで野菜炒めなのだ!」
「だって、前にチープなものは嫌だ、って言ってたじゃないか」
「野菜炒めのどこがチープではないのだ!」
お姫様が怒鳴る。やっぱり、お姫様は怒りっぽい。
「あのね、お姫様。僕たち庶民にとっては、野菜炒めは十分……」高いって英語でなんだっけ? ハイ? 合ってるけど違うな。というかさっきもこんな思考したな。まあ、日本語でいいか。「高価なんだよ。それをチープだなんて言うものじゃないよ」
「うぐ……」お姫様の勢いが弱まる。よし。
お姫様はなんだか、庶民と感覚が違うと言われることが嫌いだそうだ。自分がお金持ちで、庶民の金銭感覚とは少しずれていることを自覚しているんだろう。人間って、わかっていることを指摘されると、無性にいらつくから。
そう指摘している僕も、少し前まで庶民とはかけ離れた生活をしていたのだけれど。
「だ、だが、それとこれとは話が別だ、私は、寿司が食べたかったのだ!」
どれだけ寿司が食べたかったんだろう。というか、なんで寿司?
そう思っていると、目の端にチラシが目に入った。寿司がある。美味しそう。あ、これか。
お姫様は家から出ようとしない、正確には逃げようとしないひきこもりだけど、僕が外出している間、何をしているかはわからない。
テレビを見ているとか、パソコンでインターネットをしているとか、そんなことをしているというのが僕の予想だ。だけど、チラシくらいは見るらしい。新聞はどうだろう? わからない。
チラシを見て寿司を食べたくなった、か。僕も食べたくなってきたな。無理だけど。
うーん、どう説得しようか。
……。
「お姫様、チラシを見て寿司を食べたくなった気持ちはわかるんだけど、僕たち庶民はいつもこんなチラシがいっぱいあるところで生活しているわけだ。そして、当然僕たちも食べたいとは思う。こんなに美味しそうなんだから」
「そうだろう。だから、寿司をすぐに」
「だけど、それじゃあ駄目なんだ。僕たちはその誘惑に勝たなければいけないんだ。そうしないと、家計がやばい」えーと、どうやって終わろう。……。「つまり、その誘惑に勝つことが庶民の金銭感覚に近づく第一歩なんだよ」
ちょっと無理矢理だけど、まあいいか。
「そ、そうなのか……」なんか納得もしてるし。
お姫様は庶民的な感覚が欲しいらしいけど、何でだ? 理由がわからない。そもそも、こんなところにひきこもってないですぐに僕から逃げれば、寿司なんて食べ放題だろう。庶民の金銭感覚など必要ない。だって、庶民じゃないんだから。
「な、なら仕方ないな。うむ。野菜炒めで我慢しておこう」
お姫様はうんうんとうなずきながらそう言う。ああ、可愛いなぁ。お姫様、って呼ばれるのは嫌いらしいけど、僕にとっては本当にお姫様のような存在だ。というか、まとっている雰囲気がもうお姫様っぽいし。
「…………」黙々と、野菜炒めを食べ始めるお姫様。きゅーとあんどぷりちー。びゅーてぃふぉー、とかはあえて入れない。美しさも兼ね備えているんだけど、なんか違うんだよなぁ。お姫様は、やっぱり『可愛い』って感じだ。
「……っ! ……いただきます」ああっ、可愛い。今の見た? 食事中に言うのを忘れていたことに気付いて、わざわざ『いただきます』と言ったんだよ? それに、いただきますと言わなかったことにショックを受けていたみたいだし。あの、『はっ!』とか効果音を付けたくなる表情。可憐すぎるよお姫様。だから、美しいとは……びゅーてぃふぉーとは言えないんだよなぁ。
そんな風にお姫様をじっと眺めていると、
「食べないのか?」と、お姫様が僕のほうを向いて、上目遣いで…………――
「上目遣いは反則だよ。その位置から僕の顔を見るとお姫様は背が結構低いんだから上目遣いになっちゃうんだよ。悩殺も悩殺。世界中の全ての人間がその可憐さで失神してしまうほどに可憐だよ。僕なんてイチコロだよ。ああっ、可愛いすぎるよ可憐すぎるよお姫様」……はっ! 反射的にそんな言葉が出てしまった。不覚。
「な、な、なっ……」顔を真っ赤にするお姫様。可愛い。チョー可愛い~、って感じだ。容姿も、仕草も、性格も。全てが可憐。
だから、僕はお姫様を誘拐したのかな、と思う。ただその容姿に惹かれて誘拐したのかな。だとしたら、僕は普通の誘拐犯と変わらないんじゃないか? 僕は、そんな性的な意味で誘拐するような人間と同じ人種なんじゃないか? 僕は、そんな普通の犯罪者なんじゃないか? と、思う。
そうなら、やっぱり自首をしたほうがいいのかな。いや、自首したほうがいいのは当然か。だけど、僕は捕まりたくない。自分勝手だけど、捕まりたくはない。もし、お姫様が帰りたいと、この家から出て行きたいと言うのなら、僕は喜んでそうする。お姫様の言うとおりに、する。お姫様がひきこもりから卒業したいと言うのなら、僕はそれを止める権利なんてない。だけど、それまでは――
「何を言っている! い、いきなりそんなこと言われても、そ、その、恥ずかしいではないかっ!」顔を赤らめて怒っているような表情をしているんだけど、その顔の赤は怒りと恥じらいの感情が混ざり合った赤で、その怒りと恥じらいの混じった目で見つめられながらそんなことを言われた。
「ぐはっ」と、僕は芝居がかった動作で床に倒れる。痛い。イスにもたれかかるようにして倒れたから、床に頭が直撃した。
「えっ。……ど、どうした!」
僕を心配する声を上げるお姫様。基本的に僕に対して怒っている口調なお姫様だけど、こんなときは普通に心配してくれる。ぐはっ。罪悪感が僕を責める。いや、あれは比喩表現だって。可愛すぎて感情が抑えられなくなったという比喩表現だから。それを本気で心配してくれるとは思わなかったし。芝居がかった、って自分で表現しているくらい芝居がかった感じで倒れたから『何をしている?』と僕のことを意味がわからないような目で見るか、怒るかのどっちかだと思ってた。だから、罪悪感はもう僕を責めないで。本当にお願い。
僕がそう考えていると、お姫様が僕のところに駆け寄り、しゅんとした表情で、
「だ、大丈夫か? わ、私が何かしてしまったのか? 常識がない、私が……」
ぐはっ。