7
「……なんで、いま、そんなことを」
お姫様は口に手を当て、涙を目尻に溜める。
その涙が、嬉しさの涙だったのか、悲しみの涙だったのかはわからない。というか、僕には関係ない。
「だから、僕は、君を取り戻すんだ。僕は君に狂っているから。狂ってしまっているから。だから、僕はどんな危険も省みない。ただ僕は、僕のために君を取り戻す」
その言葉を言うころには、僕は手をのばせば届くほどにお姫様に近づいていた。
僕の言葉を聞いて、お姫様は顔を赤らめるよりも、まず、目尻に涙を溜めた。
そして、涙があふれる前に僕に寄りかかり、顔を僕の胸に押し付けた。
「そんなこと、言われたら……信じてしまう。お前を、頼ってしまう……!」
僕は胸の辺りに液体がにじむのを感じた。温かい液体だった。
僕はお姫様の頭に右手を置き、
「良いんだよ、お姫様。僕を頼って。僕を信じて。僕は、それに応えるから」
左手で、そっと、お姫様の体を抱いた。
お姫様の体は柔らかく、そして、温かい。その優しさが、体にまで伝わっているかのような温かさだ。
「……誘拐犯。ありがとう。あり、がとう。……ありがとうっ!」
お姫様は僕の制服を握り締めながら、僕に体重を完全に預ける。軽い、だけど、そこには『重み』があった。僕がこれから一生、背負い続けなくてはいけない重み。
「私、私、嬉しくて、だけど、だけど、これを受け入れちゃうと、私、お前をっ」
お姫様が嗚咽を漏らしながらそんなことを言う。
「……僕は、君を守る。だけど、少し、頼み事があるんだ」
僕はお姫様の頭をなでながら、お姫様に言う。
「……なに?」
「僕と、契約して欲しい」
僕の頼みはそれだった。
契約とは、つまり、繋がるということ。
契約すれば、いつでも僕とお姫様は繋がって、そして、僕もお姫様の力を行使できるようになる。
悪く言えば、お姫様の力を借りるために契約してくれ、ってことだ。
契約には色々と条件があって、まあ、相手と心が通い合っていないといけない、という条件があるのだけど、それは、僕の勝手な思い込みでなければ、もう達成できていると思う。
「け、契約、って、も、もしかして……」
慌てながら顔を赤らめるお姫様。腕をぶんぶんと振り回している。
「あの、その、なにを、するんだ?」
僕はお姫様をまだ抱いているんだけど、それもかまわずにお姫様は腕をぶんぶんと振り回す。お姫様の手が当たるのは心地よいから良いのだけれど。
というか、何をする、と聞かれたら少し悩むな。
……。
「契りの儀式、かな?」
僕は首をかしげながらもそう答える。名前は、そんな感じだったはずだ。
「ち、契りの儀式……」
お姫様はその愛くるしい顔を真っ赤に染め上げ、腕を振るスピードを上げる。
「簡単に終わるから、そんなに緊張しないで」
僕はお姫様の肩に手をおいて、腕を止める。お姫様が疲れたら大変だしね。
お姫様は「か、簡単に……」と呟きながら腕を止める。良かった。
「で、でも、まだ、早すぎると思う」
「……僕としては遅かったと後悔してるよ」
顔の赤みが増す。さっき真っ赤だったのに、どれだけ赤みが増すんだお姫様は。可愛らしすぎる。狂気が僕を侵蝕していっちゃう。もうすでに心は完全に侵蝕されちゃっているけどね。
「お、遅すぎって……いや、うん、そう、かもな。……うん」
「じゃあ始めよっか」
「ちょちょちょ、ちょっとだけ待て! まだ心の準備が……」
そう言って、お姫様は数回深呼吸。いや、そこまでするものじゃないと思う。
「……どうぞ」
そう言って、お姫様は目蓋を閉じて、顔を少し上げ、唇をちょっとだけ突き出す。
……。
何でこんなことをしているかはまったくわからないけど、可愛すぎるやばい。
心のアルバムにこの写真が数百枚追加されたよ。網膜に焼き付けて常にこの映像を見ておきたいくらいだ。それくらい可愛い。
でも、お姫様を待たせるわけにはいかない。早く済ませよう。
「我、久遠真夜なり」
僕は言葉を紡ぐ。契約に詠唱は必要ないけど、少なくとも、僕の知り合いはこうやって契約をしていた。
「今この時をもって、我は此処に在りし星見ヒメという名の現人神と契約を交わす」
僕の知り合いは神に自分でつけた名前でやっていたから、お姫様と言ったほうが良かったかな、と少し思ったが、すぐに、あくまでもお姫様の名前は星見ヒメだから、このままで良かった、と思う。
「認めよ、世界よ。去ね、認めぬ者。死ね、我が敵」
僕はお姫様の頭の上に手を置き、最後の言葉を言う。
「祖が認めずとも、我は式にて認めさせよう。我の名において、契約よ、成立せよ!」
そこで、僕は式を世界に行使する。
手が、黒く輝き、その黒い光は、僕らを包む。
その瞬間、ドクン、と心臓が大きく鼓動した。
それで、僕らの契約は成立したと悟った。
今の、心臓がドクンと鼓動したのは、ただ血液を全身に回すためではない。回る血液が変わった、という鼓動だ。
「……契約、成立」
僕はそう呟いて、お姫様から手を離す。
「……え?」
と、お姫様は『もう終わり?』とでも言いたげな顔をしながら目蓋を開いた。
「……終わり?」本当にそう思っていたらしい。
「うん」僕は正直に返す。
「……じゃあ、私の、勘違い……」
お姫様はかぁっと顔を染めて、手で顔を覆う。いきなりどうしたんだろう?
まあでも、一件落着。
――だから、後もう一件だ。
忘れてはいけない。そう、忘れてはいけないのだ。
「お姫様」
僕はお姫様に声をかける。
「うぅ……なに? 今はちょっとへこんでいるから、少し待っていて欲しい」
ごめんお姫様。そんな猶予は、残されていない。
「今、野々崎さんが、僕の姉さんを足止めしてくれている」
「……姉さん?」
お姫様は疑問符を浮かべて訊ねる。知っていると思ってたけど、知らないのか。
「君をここまで連れて行った人だよ」
僕の言葉に、お姫様は眼を見開かせる。
「それじゃあ、早く助けに行かなければ!」
……ああ、やっぱりお姫様は可愛いなぁ。
本当、見捨てるなんていわないところが、とっても可愛い。
そんなことを思いながら、野々崎さんを助ける準備をしていると、
コンコンと、ノック音が響いた。
「お嬢様。入らせてもらいます」
……もう、か。
「ちょ、ちょっと待て! まだ! もうちょっと!」
お姫様は慌ててそう叫んでいる。だけど、無駄だろう。全ての可能性を考えれば、僕と言う不審者とお姫様という守るべき対象が同じ部屋に二人っきりでいるんだ。そんな状況なら、お姫様が僕に脅されている可能性も十分にありえるわけで、そんな状況が起こっている可能性が一パーセントでもある限り、あの男は扉を開く。
だって、もしそんなことがあったら、僕でもそうすると思うから。
扉が開き、男の顔が見える。
男の両眼が僕たちを捉える。男は一瞬驚いたような顔をして、
「お嬢様から離れろ!」
叫んで、銃口を僕に向ける。
「待て! この人は、悪くない!」
お姫様が男に向かって叫ぶ。意味のないことだ。
「お嬢様、今すぐその男から離れてください。その男は危険です」
僕から眼を離さず、お姫様に言う。
「佐々木! 『命令』だ! 今すぐに銃を下ろせ!」
『命令』という言葉に、僕は反応してしまう。……これは、帰ったらちゃんと説明しないと、危ないな。
まあけど、今回は好都合だ。
「お嬢様! それはできません!」
男は、そんなことを言いながら、銃を下げた。
「……え?」
男は信じられないと言ったような顔つきで、自分の手元を見る。まあ、そりゃあそうだろう。自分の意思とは関係なく、お姫様の言葉に従ってしまったんだから。
僕はそれを見て、微笑む。そして、お姫様の手を取った。
「ははは。ごめんね佐々木さん。お姫様は、僕がもらうよ」
僕はそう言いながら、窓の方へ走る。
タッタッタッ、と廊下に足音が響くのが聞こえる。増援か。だけど、もう遅い。
「……お姫様、僕に、付いてきてくれる?」
走りながら、顔だけお姫様のほうに向けて、言う。
「……もちろんっ」
お姫様は窓の外に光る太陽よりも煌く笑顔で、そう言った。
「くそっ、待て!」
ぞろぞろと、男の他にも色々な人物が扉から窓へ近付いてくる。
式者もいた。というか、久遠の人じゃん。久しぶりだなー。ほんと、憎たらしい。
「……真夜?」
おお、その他にも式者の顔見知りがちらほら。世間は狭いなぁ。
「誘拐犯。どうするのだ? こんな大勢から、どうやって逃げるんだ?」
お姫様が時々転びそうになりながら、僕に付いてきてくれている。今思えば、手を握って走っているだけじゃ、危ないか。
「よっと」
僕はそんな声を出しながら、お姫様を抱える。走りながらでは危ないので、一回、立ち止まってから。
そんなことをしていては、もちろん、ぞろぞろと囲まれた。
「もう抵抗しても無駄だ。早くお嬢様から離れろ」
僕の後方には窓。前左右には人、人、人。部屋を埋め尽くすほどの人。
お姫様がぎゅっ、と僕の制服を握る。不安なのかな。まあ、まだ自分の力がどれほどのものか、実感できていないだけなんだろうけど。
「……お姫様。あの、佐々木って人、お姫様にとって、大切な人?」
僕が訊ねると、お姫様は少し迷う素振りをして、
「まあ、大切な人、かな。小さいころから世話をしてくれたりしたし……いっ、いや!私にとってはお前のほうが大切だけどな!」
慌てるように訂正してくれて、僕はかなり嬉しい。佐々木さんはちょっとかわいそうだけど、まあどうでもいい。
だけど、佐々木さんが大切なら、話は変わってくるな。
それは、佐々木さんを傷つけたら、お姫様も傷つけてしまうと言うことだから。
……なら、やっぱりこっちの方法か。
僕はお姫様に「そう」と薄く微笑み、一歩、後ろに下がる。トンと窓に背がつく。
周りの人たちがにやにやと笑みを顔に浮かべ、お姫様は不安を顔に浮かべる。
「じゃあね。みなさん。もう会わないことを祈ってるよ」
僕は周りの人間にそう笑いかけ、小声で「ちゃんと掴まって」とお姫様に言い、お姫様を抱えていないほうの手の平を、窓に当てた。
「久遠の名において命ずる。風よ、我が身を天へ導け」
そう言った瞬間、窓にヒビが入り、バリンと大きな音を立てて、窓ガラスが全て割れた。
僕は後ろに跳び、ビルから出る。僕以外の誰もが、驚愕の色で顔を染めていた。
重力が僕らを引く、その時、ブオッ、と風が僕らを引き上げた。
「くそっ、待て!」
窓から身を乗り出し、僕らを見上げる佐々木さんやその他色々。
彼らは僕ら、というより僕を恨めしそうに見ていた。お姫様がいるから迂闊に攻撃できないのだろう。
僕はそれを見下して、少し色々と考えて、すぐにビルの屋上を見上げた。
そんな時、
「……ねぇ、誘拐犯」
お姫様が、僕に声をかけた。
「なにかな、お姫様?」
僕は腕の中に収まっているお姫様を見て、そう訊ねる。
「……あっち、見て」
そう言って、お姫様が僕の後ろを指差す。
僕にはお姫様がなんでそんなことを言うのかわからなかったが、とりあえず、後ろを見た。そして、僕は思わず息を呑んだ
そこには、視界いっぱいに煌く光があった。
「……これは絶景だ」
「でしょう?」
お姫様が小さく笑いながら言う。
本当に、絶景だった。光が反射しあい、一つの芸術を作っていた。屈折もしている。なんだか、色もついているようで、まるで虹の中にいるような錯覚に襲われた。
これはおそらく、窓ガラスの破片だろう。
風によって巻き上げられた、ガラスの破片。それが僕らの周りに飛び交い、太陽の光を反射し、屈折し、こんな芸術を生み出したんだろう。
だけど、そのことは、黙っていよう。
だって、
「……神様が、私たちを祝福してくれたのかな」
お姫様が、そんなことを、本当に幸せそうな表情で言うのだから。
「うん、きっとそうだよ。そう、きっと」
「そう、だよね。そうじゃなきゃ、こんな奇跡みたいな光景、見れないもんね」
――神様。
もしもお姫様の言う通り、僕らを祝福してくれるんだったら、何もしない。
「ああ、絶対に、そうだ」
「……本当に、きれい」
だけど、もしもこの笑顔が壊れると言うのなら、僕はあなたを従えてでも、その運命を捻じ曲げてみせる。
それが、僕が望み、求めるものだから。