3
運良く誰にも見つからずに屋上に着くと、いきなり野々崎さんが体をひっつけてきた。
「鬱陶しいから離れてくれないかな。虫唾が走る」
僕はそう言って、野々崎さんの頭を引き剥がすようにして押した。
「……癇に障る言い方だけど、まあ、元に戻ったみたいで良かったよ」
野々崎さんは僕から離れて、眉間に少ししわを寄せる。
「君が私に触られたくらいで顔を赤めるはずがないし、私に手を払われたくらいで落ち込んだりしないし、というかそもそも私に触ろうとなんか思わないだろうしね」
野々崎さんの言葉に、僕はそういえばさっきはそんなことをしていたなぁ、と思い出す。今考えたら、僕はなんてことをやったんだ。うわ、思い出しただけでも鳥肌が。
「本当に癇に障るけど、良かった。さっきまでの君じゃあ、殺す気が出ないもんね」
……僕、何をやったんだろう。こんなにも鬱陶しいから、思わず殴ったりしたんだろうか。ありえる。だけど、それをした僕は後悔しただろう。なぜなら、殴ったとすれば、野々崎さんに触れてしまうことになる。それはもう、最悪なことだから。
――って、違うだろ。訊かなければいけないだろ。何があったか。それを訊かないといけないだろ。
「野々崎さん。そんな話はどうでもいいから、訊きたいことがあるんだよ」
「どうでもいいって……。本当に癇に障る人だね、冴輝君は」
野々崎さんがまたどうでもいいことを言った。
僕はそれを無視して、訊ねる。
「昨日、僕と野々崎さんに、何があった?」
「……は?」
野々崎さんは『何を言っているんだこいつは』とでも言いたげな表情をする。
「いや、ちょっと僕は記憶喪失っぽいものになってしまったみたいでさ、僕に何があったか、思い出せないんだよ。思い出せたのは、野々崎さんが鬱陶しいってことだけ」
「なんでそれだけ思い出したの? 私、傷つくよ?」
「いやまあ、野々崎さんが傷つくのはどうでもいいんだけど、それはわからない。なんか、野々崎さんは鬱陶しいってことだけは覚えているんだよ」
「……ひどいよ。冴輝君。私に、あんなことしたのに」
と野々崎さんは嘘泣きを始める。上手い嘘泣きだ。
「そんなことはどうでもいいから、早く教えてくれない?」
「どうでもいい! どうでもいいって言葉で片付けられた! 冴輝君、前よりもひどくなってない?」
「どうでもいいから早くしろ」
僕が少し苛立った声で言うと、野々崎さんはびくっ、と体を震わせて、
「う、うん。わかった。……あの、その、ごめんなさい」
少し泣きそうな顔をして謝った。ちょっと意味がわからない。
そんな意味がわからない野々崎さんは先ほど言ったとおり、昨日、僕と何があったかを話し始めた。
「……えと、昨日、私は冴輝君の家に行って――」
「ちょっと待て」
いきなり衝撃的なことを言われて、僕は野々崎さんの話を制止する。いや、野々崎さんが僕の家に来た? いやいや、そんなこと、あるはずがないだろう。
「なに?」
野々崎さんは首をかしげる。
「いや、納得できない。なんで君が僕の家に来るんだ。ありえないだろう。僕がそんなことを許すとは思えない」
「……そこまで、私のこと嫌い?」
野々崎さんが悲しそうに訊ねる。いや、そんなの今までのやり取りから考えたらわかるだろう。
「嫌いだよ。もちろんね」
僕がそう言うと、野々崎さんはショックを受けたように一度顔を伏せ、
「……そう。じゃあ、なんとかして記憶を取り戻してもらわないとね」
そう言って、顔を上げた。
「まあうん。だから教えて。僕が何で、君を家に入れることになったのか」
僕の言葉に、野々崎さんは少し逡巡。
「なんか、難しい質問だね。それ。……私が入りたいと言ったから、かな」
「いや、そんなので僕が許すとは思えない」
「えー」
野々崎さんが不満そうな声を上げる。不満なのはこっちだ。
「……それなら、なんで野々崎さんは僕の家に入りたいと思ったの? それを訊けば、わかるかもしれない」
「それは当然――」
そして、野々崎さんは、言った。
「――星見さんに会うために。だよ」
どくん、と心臓が脈打った。
「星見さん……って?」
声が震えている。体も震えている。
「え? もしかして、それも忘れてるの?」
野々崎さんが驚いたように言う。
「いや、でも……」
野々崎さんは考え込み、
「ねぇ、冴輝君。君の記憶って、いつから無いの?」
「……昨夜、かな。今朝の、記憶は、あるよ」
「そう。……ということは」
野々崎さんは何かに納得したらしい。何に納得したかはわからない。
だけど、そんなことはどうでもいい。星見さん、って、誰だ? 僕はそれを、思い出さなければいけない。そんな気がする。思い出さなければいけない。絶対に。
「……冴輝君。わかったよ。何があったのか」
「本当に?」
僕は訊ねる。それがわかれば、記憶を取り戻せるかもしれない。
「うん。まあ、推測なんだけど。……まず、星見さんっていうのは、星見ヒメという名前の可愛い女の子。冴輝君はその女の子を誘拐して、家に監禁していたの」
すごい驚愕の事実をさらっと言われた。なんだ僕。そんな最低なやつだったのか。
「いや、監禁していたかどうかは定かではないけど、まあ、とりあえず、星見さんは君の家にいたの。それが、星見さん。わかった?」
「まあ、うん」わけがわからないけど。
「そう。……そして、君は今朝、記憶を失っていた。それに気付いたのはなぜかついさっきみたいだけど、まあそれはいいか。それで、質問。冴輝君。今朝、君の家に、星見さんはいた?」
僕は今朝のことを少し思い出す。誰かいたか? いや、いなかった。
「いないね」
「やっぱりね。……と、いうことは、星見さんが誰かに――詳しく言うと、私の後に雇われた誰かに連れさらわれた。そう考えるのが妥当。だから、何があったかというと、星見さんが連れさらわれた、ということだね」
どくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくん。
心臓が悲鳴を上げるように脈打つ。頭に血が巡るのが感じられる。酸素が脳を活性化させる。神経が電気信号を受け取り、送信する。ニューロンがくっついて、離れる。海馬を色々なものが通り抜ける。右脳から左脳へ。左脳から小脳へ。小脳から前頭葉へ。そんな風に、脳が活動する。
そして、何かが剥がれた。
それで、見えた、ものは。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
「……ああ、思い出した。何があったか、全部」
僕はそう呟いて、野々崎さんを見る。呆然としている。僕はそれを見て、くすりと笑って、
「ありがとう。野々崎さん。君のおかげで、思い出せたよ」
僕がそう言うと、野々崎さんはびくっと体を震わせて、
「えっ、いや、礼を言われるほどのことをしたわけじゃないし。そんな、べつに……どう、いたしまして」
野々崎さんは気恥ずかしそうにそう言った。
「じゃあ、教室に戻ろうか。自習らしいけど、先生が見回りにくるかもしれないしね」
僕が言うと、野々崎さんは驚いたような顔をして、
「星見さんは、良いの?」
そう、訊いてきた。
……なんで、訊くかなぁ。
「冴輝君は、星見さんがさらわれたりしたら、どんな手段を用いても助けに行くと思ってた。もしかして、まだ記憶が戻ってない?」
そういえば、記憶がなくなったのは何でだろう。強烈なショックによる一時的な記憶障害、ってやつかな。それとも、姉さんの神にそんな霊能があったのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。
「戻ってるよ。忌々しいほど鮮明に」
そう、鮮明に。
昨日、何があったか、その全てがついさっきあったことのように思い出される。
「それなら、なんで」
野々崎さんに訊かれて、僕は姉さんのある言葉を思い出す。姉さんは正しい。だから、嘘はつかないはずだ。それを信じると、自ずと答えは出る。
「お姫様が¥は、そっちのほうが幸せだから」
姉さんは確かにそう言っていた。
「……君は、それで納得できるの?」
野々崎さんが訊ねる。静かな問いだった。だけど、その静かさが、重かった。
「……ああ。納得できるよ」
納得できるはずが無いのに、僕はそう答えた。
「嘘っ! そんなわけ、あるはずない! だって、冴輝君は――」
「嘘じゃない! だって、だって、お姫様が幸せになるんだ。それの何が不満だって言うんだ! ……僕は、お姫様のために生きると決めたんだ。だから、それがお姫様のためになるのなら、それがどんなにも辛いことでも、僕は、それを肯定する。そう、決めたんだ。だから、嘘じゃない。僕は、お姫様がさらわれて、良かったとすら思ってる。そう、思わなくちゃいけないんだ」
「そんなのっ! ……いや、君にとっては、それが……」
野々崎さんは未だに納得できないようにそう呟く。
「だから、教室に戻ろう。僕は、お姫様のことは、もうあきらめる」
「……でも、それじゃ」
「お願いだ。野々崎さん」
野々崎さんの言葉を遮り、僕は野々崎さんに頭を下げる。
「……うん。わかった」
そう言って、野々崎さんは屋上から出て行った。
もちろん、僕もそれに続く。
そのときに見えた空は、晴れ渡っているはずなのに、暗い空だった。