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というか、呼ばれた。誰が? 僕が? 僕が。僕か。
僕は、その声をする方を見る。顔。髪飾り。それで誰か把握。
「なんだ野々崎さんか。緊張してびっくりして損した」
「しっ、失礼な! 『なんだ』、って何なの! 『損した』って何なの!」
「うるさい。黙れよ負け犬」
「誰が負け犬っ」
「君だよ野々崎さん。自分の式神を簡単に奪われちゃった野々崎さんだよ。まさか、その自覚すらないのか。これはもう手遅れかもしれないな。主に頭が」
「……むかつく」
そう言って、口を尖らせる野々崎さん。本当に、緊張して損をした。野々崎さんなら、気軽に話せる。もうお互いの本性を知っているわけだしね。
「じゃあ、ちょっと退いてくれ。自分の席に行きたいんだ」
「あっ、うん」
そう言って、素直に退く野々崎さん。ここは通さない、とかは言わないんだなぁ。
僕は自分の席まで行って、肩で支えていた荷物を置く。肩の荷が下りた気分だ。
「……って、そうじゃなくて、冴輝君。私はあなたを後悔させると言ったよね。それで、何で学校に来ているの? 危険とか、感じないの?」
「君の存在なんてどうでもいいから」
「えっ」
「で、君は何でこんなにも早く学校に来ているんだ? 不思議で不思議で仕方が無い」
「……どうでも、いい。…………えぁっ、なんでこんなにも早く学校に来ているか? そんなの決まってるよ。君が来たときにすぐ式神で色々しようと思って、その準備のためだよ。幸い、私は君のいつもの登校時間を知っている。だから、それを考えて、こんな時間に来たんだよ」
「へぇ」それは感心感心。一度負けた相手に復讐するのに頭を使う。それは良いことだ。――で、「それは僕に言って良かったの?」
「あっ……。……えと、その……いや……。だ、だって、もう君はここにいるじゃない。だ、だから、も、もう別に良いかなー、って、思ったの!」
「じゃあ明日にその計画は回せば良かったじゃないか」
「うっ……。いや、でも、あの、ひっ、卑怯なことは、駄目じゃん? だから、だよ。だからなの!」
そんな風に強く言われると言い返しにくいな。
「その卑怯なことをしていたのは誰だ? 僕の記憶が正しければ、目の前にいる負け犬のような気がするよ」
あー、超言い返しにくかったわー。
「……そっ、それはね。あのね。…………風神っ!」
風が吹く。教室の扉が閉まる。それでも風は止まない。僕の顔を撫でるようにして、風は吹き続けている。
野々崎さんの髪飾りが発光している。エメラルドグリーン。それに似た色で発光している。神々しいものを感じる。神の一端なのだから、当然か。
「我が命に従いて、彼を打ち滅ぼせ!」
野々崎さんは僕を指差して、叫ぶようにしてそう言った。野々崎さん、ちょっと冷静さを欠いているな。
風の音がして、野々崎さんの姿が、歪んだ。
どうやっているかはわからないが、屈折している。光が屈折している。それほどの風の量ってことなのか? いや、風でそんなことは起こらないだろう。じゃあ、何だ?
……。
「静電気?」かな? いや、でも、静電気って、こんなのできるっけ? まあ、よくわからないから、神の御業とでも考えておこう。
「ほうら、後悔した! あなたは昨日のことを後悔した!」いやあのすいません別に後悔してないです。「あの時、私を殺していればよかったんだ! それなら、こんなことにはならなかった。あなたは死ぬ。私を殺さなかったことを悔やんで地の獄へ行け!」
直後、何かが僕に近づいてきた。何か、それが何かはわかっている。説明はできない。科学的に説明は、できない。だけど、こっち側。僕らの理論でなら、説明できる。
これは、神。式で操られた、神。概念のようなものだから、姿は見えない。だけど、はっきりと感じられる。それが、僕に近づいてくる。
だけど、僕はそれに対して、何の策も講じない。
ただ、言う。
「野々崎さん。どこからが芝居だったの?」
「……そう。やっぱりばれてたの」
直後、神は感じられなくなった。風も止んだ。音が消える。
まあ、結局はハッタリってことだ。
野々崎さんは、僕に式を使わせようとしていた。
ただ、それだけだ。
僕を殺そうとなんか考えていないし、だからこそ、式を使っていない僕に対してあんな攻撃をしようとはしない。
「僕を殺すんじゃなかったの?」
「もうそれは良いらしいの。私はもう用無しだって。一度失敗した者は信じられない、ってことかな」
「難儀なことだね」
「本当にね」
「まあ、それはもういいんだ。それなのに、何で僕に式を使わせようとしたの?」
「戦いたかったから。私は負けるのが納豆よりも嫌いだから、あなたと戦って、勝ちたかった」
「そうなんだ」どうでもいいな。「ところで負け犬」
「殺すよ?」風が少し僕の頬を切った。痛いなもう。と言うか、それができないから、クビになったんだろうに。
「誰に、依頼されたの?」
僕は頬の傷を適当に塞いで、訊く。これが一番訊きたかった。というか、これは訊かなくちゃいけない。お姫様を狙う者。そんなやつ、殺してやる。だから、訊いた。
「答えられない。依頼者の情報は教えられない。それは絶対。そんなことはわかりきっているでしょ?」
案の定そんな答えが返ってくる。だけど、そう簡単にあきらめるわけにはいかない。
「もし教えてくれたら、戦ってあげるよ」
「えっ!」と、一瞬目を爛々と輝かせる野々崎さん。だけど、すぐに首を振って、こほん、と一回咳をする。「それでも、できない。信用が無くなったら、他の依頼が来なくなっちゃうし」
「期待していなかったから、別に良いよ。それなら、拷問してでも訊きだすから」
僕は笑顔でそう言う。一応、死にたいと渇望させるほどの拷問くらいなら僕にもできるし。
「それでも。というか、その場合は戦ってくれるんでしょ。なら、願ったり叶ったりだよ」
そう言う野々崎さんの顔を見て、判断。
「……じゃあ、言えることは何かある?」
お姫様のためなら拷問することなんてお茶の子さいさいだけど、野々崎さんは、無理だ。色々と、不都合がある。さっき見て、判断した。その結果。
「次がある。私の代わりが、いる。それは絶対。依頼者は星見ヒメを取り戻すためなら、何でもしそうだし。というか、だからこそ、式者なんかに頼ったんだし」
それに、式者の存在を知っている。それだけで、どれくらいの人かはわかる、か。
……。
「そうか。ありがとう。感謝するよ、野々崎さん」
「べっ、別に良いよ。ただ、君が死んだら、私は永遠に君に勝てなくなる。だから、言ったの。それだけ。……それだけだからっ」
野々崎さんは上気した顔で言う。なんか怒ってる? どうでもいいな。
「そう」
どうでもいいので僕はそれだけ言って、自分の席に座り、勉強を始めようとする。というか、宿題と予習を。色々取り出して、机に並べる。さて、始めよう。
そんな僕を見て、
「……何をやっているの?」
「宿題と予習」
僕が当然のようにそう言うと、
「……やるの?」
「もちろん」
やらないなんて、考えられない。
「……意外かも。君はそんなこと、面倒くさがってやらないっていうイメージだった」
そんなイメージだったのか僕。
「ちょっと、見直した、かな」
「君に見直されても全然全くこれっぽっちも嬉しくないよ。というか僕はいそがしいから、放課後までトイレにでもひきこもってくれないか?」
「……今の言葉は撤回する。私、君のこと、嫌い」
野々崎さんは僕を非難するような目でそう言う。
「そうか。僕は君のこと、けっこう好きだよ」
「え……」
野々崎さんは不意を突かれたような顔をして、そう漏らす。野々崎さんって、表情がコロコロ変わるな。それがどうということもないけれど。
そして、沈黙。
僕は黙々とペンを走らせる。野々崎さんが何をしているかは見る時間がもったいないからわからない。まあ、仕方ないよね。
教室に僕のペンを走らせる音。そして、黒板の上にある時計の秒針の一定のリズム。
その中で、僕らは何も、一言も話さない。
沈黙がこの空間を支配する。僕としては、大歓迎。ラッキー。沈黙さん、頑張って。できれば永遠に空間を支配してほしい、とか思っていた。
だけど、そんな期待は打ち砕かれた。
「……ねぇ」
野々崎さんがそう僕に声をかける。いや、僕に声をかけたんじゃないのかもしれない。風神に声をかけたのかもしれない。きっとそうだそうに決まっている。
「冴輝君」
だけどそんな期待は打ち砕かれた二回目だよ! どんだけ僕の期待を打ち砕くんだよ! 期待を打ち砕く者とかいう意味のわからない存在なのかよ君は!
「……あの、訊きたいことが、あるんだけど」
野々崎さんは訊きたくなさそうにそう言った。表情と言葉がちぐはぐ。どっちだよ。
「いや、私も君に訊くのは癪だよ。だけど、私は、どうしても、強くなりたいから」
野々崎さんは僕の顔を見据えて、そう言った。『強くなるためには手段を選ばない』、ねぇ……。
「だから、訊きたい。私は、どうしたら強くなれる?」
野々崎さんは、嫌そうに、だけど、真摯に、そう言った。
屈辱的、なんだろう。僕に訊く、負けず嫌いの人間が、自分が負けた人間に教えを乞う。とってもとっても屈辱的だろう。
だけど、野々崎さんは訊いた。僕に、訊いた。
……。
「それを、僕に教えてほしいって?」
「うん」
野々崎さんははっきりと言う。
「それで強くなったら、僕と戦うんだろう?」
「うん」
野々崎さんははっきりと言う。
「それで、僕が、教えると?」
「……やっぱり、ダメ?」
野々崎さんは首をかしげて僕のほうをじっと見る。
やっぱり、ってことは、最初から教えてもらえるとは、思っていなかったのか。それなのに――それでも、それでも教えてくれる可能性が、一パーセントでもあるのなら、どんな屈辱的なことでもしよう、ってことか。『強くなるためには手段を選ばない』。・・・…本当に、似ている。
「……そう、だよね。ごめん。これは、私が悪かった。敵に、そんなこと、教えるはずが、ないよね」
野々崎さんはしゅんとして、そんなことを言う。まあ、普通に考えて、教えるわけが無いよね。教えるような人間は、本当に馬鹿だ。自分のみが危険になるのかもしれないのに、教える。それは、本当に、本当に、馬鹿だ。
――だから、
「式神に、名前を付けると良いよ」
僕は、馬鹿だから、言おう。
「――え?」
野々崎さんは驚くように僕の顔を見た。
「式神に、名前を付ければ良い。そうすれば、君と式神の繋がりは、強くなる」
「……それで、強く、なれるの?」
野々崎さんは、信じられないような顔をして、僕の顔を見ている。まあ、信じられないのも無理はない。名前を付ける。それだけで強くなれる。そんなこと、あるはずがない。――とでも思っているんだろう。
「ああ、強くなれるよ。たったそれだけのことで、君は強くなれる。……ただし、名前はちゃんと考えるんだ。ちゃんと、意味を持った名前を付けるんだ。そうしないと、繋がりは強くなるどころか、弱くなる。それと、できるだけ、意味を相手に推測されないような名前にするんだ。『久遠』に意味がばれたら、それを利用して、昨日みたいに、僕に式神を奪われる。だけど、ばれなければ、『久遠』でも式神を奪うことは難しい。――というか、僕にはできない。だから、名前を付けると良い。そうすれば、確実に強くなれる。ちゃんとした意味を持った名前を付けると、強くなれるよ」
僕は少し微笑みながらそう言った。微笑んだのは、どうしてだろう。自分でも、わからない。自然と顔がほころんだ。
「……どう、して」
野々崎さんは、うつむいて、言う。
「どうして、それを、私に、教えるの?」
「君が教えろ、と言ったんじゃないか」それで不満があるなんて、傲慢すぎる。
野々崎さんは「そう。そうなんだけど」と、少し首を振り、
「そうなんだけど、違うの。私は、確かに強くなりたかった。だけど、教えてもらえるとは、思っていなかったの」
なら、何で言ったんだよ。
「だって、私に強くなる方法を教えたら、私は君にまた、勝負を挑むよ?」
「そんなことはわかっているよ」僕は馬鹿だけど、バカじゃないし。
「なら! ……なら、何で」
野々崎さんは納得がいかないようだ。せっかく僕が教えてあげたっていうのに。
まあけど、その気持ちもわからないことは無いから、教えてあげよう。
「君が、お姫様――星見ヒメを、もう狙わないとわかったから」
「え?」
野々崎さんはまだ納得がいかないようだ。面倒くさい。
「だから、もう彼女に危害は及ばないんだから、それなら良いってことだよ。彼女に危害が及ぶのなら、地の果てまで追い詰めてでもその原因を壊し尽くすけど、それ以外なら、別にどうなっても良いからだよ。君が僕の命を狙っても、もう彼女に危害は及ばないと判断した。――だから、教えたんだ。わかった?」
まあ、理由はもう一つあるんだけど、それは言う必要がないかな。
「……君、おかしいよ」
野々崎さんが、ぽつりと言葉を吐き落とした。
「本当に、おかしい。狂ってるよ」
ぽつりぽつりと言葉を落として、
「……わかった」
そう、決意のこもった言葉を口にした。いや、何がわかったんだよ。
「……あの、さ」
「何?」
「……いや、やっぱり放課後で、良い」
「気になるから早く言ってくれないかな負け犬なんだから勝者に従えよ」宿題に集中できないじゃないか。
「なっ、誰が負け犬って!」
野々崎さんは激昂する。うっさい。
「君だよ負け犬。うるさいから黙れ。もしくはさっき言おうとしていたことを言え」
「負け犬って言わないで!」
うっさい。面倒くさい。
「わかったよ負け犬」
「だから!」
野々崎さんは普段、つまりは学校生活では出したこともないような声を上げる。今まで演技してきた学校生活では出したこともないような素の声……ということは、
「あ、誰か来た」
僕が言うと、野々崎さんは、
「おはよう。来るの早いね。冴輝君と二人っきりで、ちょっと寂しかったよ。もしかしたら、今日は学校がないんじゃないか、って思ったくらいだよ」
とか言いながら、歯磨き粉よりも爽やかに微笑んで、教室の扉の方に振り返った。
当然、誰もいない。
「……」野々崎さんは、振り向いて、爽やかな微笑みのまま、硬直する。
「バカだバカだ。バカバーカ。騙されてやんのー。負け犬はやっぱり負け犬らしい残念な知能しか持ち合わせていないようだね。いや、こんなことを言ったら、犬に失礼か。君の知能はミミズにすら劣るんだから」
僕は淡々とそう口にする。バカだ野々崎さん。はずかしっ。野々崎さんはずかしっ。うわー、ぷるぷる震えてるよ。顔を真っ赤にして、ぷるぷる震えてるよ。はっずかし。ぷぷぷ、野々崎さんはっずかし。
「……」
はずかしい野々崎さんが無言で振り返って、僕を見る。何をする気だろうか。もしかして、風神で僕に対して攻撃? 学校の中でそんなことするはずないけど、今の野々崎さんははずがしがって怒っている。つまりは理性がちょっと曖昧な状態だから、してくる可能性もあるな。一応、式で止める準備をしておくか。
僕はそう考えて、野々崎さんを見る。式を使うのなら、その瞬間に止める。そう思って、野々崎さんの口元を凝視する。大きい式の発動には言葉による詠唱が必要だから、口元を凝視する。さあ、どうだ。どうだ。どうなんだ。
――とか思って身構えてたら普通にビンタされた。
バチィンと鋭い音が響く。ずれる視界。頬に電撃が走ったような痛み。
いや、何が起こったか理解するのに時間がかかったよ。びっくりした。本当にびっくりした。絶対に式でやってくると思ったから、予想外だった。……これが『見えないビンタ』か。意識の外から打つビンタ。まさに最強のビンタだ。
「……ばか」
拗ねたようにそう言って、野々崎さんは教室から出て行った。
……。
よくわからないけど、宿題している僕を気遣ってくれたって判断してOK?