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いつもより少し早いだけで、だいぶ変わるなー、と思った。
朝日はまだ低く、人の声はいつもより少ない。眠そうに目をこすっている人もちらほら。欠伸をしている人もちらほら。ちらほらちらほら。ずっと言っていると、ちらほら、って言葉が意味のわからないものになっていく。ちらほら、ってなんだよ! 呪文かよ! そんなものは式者の管轄外だから、京都にでも行っとけ。そんなの使っている人、いそうだから。式以外のものを使っている人、いそうだから。手から火を出したりする人がいるかもしれないから。意味のわからない呪文を唱えている人がいるかもしれないから。僕のオススメは、京都の中央より少し東の寺、のような家。あそこなら、そんな人がいる気がする。もしその人に呪文を唱えられて死んじゃっても、僕は一切の責任を負いません。
まあ、つまりは人がいつもより静かってことだ。商店街の店も、いつもの半分以上が閉まったままだ。開店していない。さすがにこの時間は早いか、と思う。
駅に着いた。人チョー少ない。向こうのホームも少ない。なんか、線路に向かってつばを吐いている人がいた。チョーマナー違反。多分マナー違反。マナーって何だ? マナーはまな板のまなの部分だよ! 違うよ!
僕はホームにあるベンチに座る。次の電車は二分後らしい。ナイスタイミングに来れたんじゃないだろうか。今日の僕は運が良いのかな、なんて思ったりする。
二分。微妙な時間だ。何をするにも微妙な時間だ。はっきり言って、ベンチに座るほどの時間じゃない。もう座っちゃいましたけどね。まあ、それはしょうがない。座りたかったのだもの。仕方が無いでございましょう。おーほっほっほ。何をやっているんだ僕は。馬鹿か。馬鹿なのか? ……。うん、僕って、普通に馬鹿だった。ちょっと考えて、自分が馬鹿だってわかった。いや、だけど、ソクラテスさんも無知の知って言ったし、僕は頭がいいんじゃないだろうか。いやだけど、そんなことを思うってことは、僕はやっぱり馬鹿なんじゃないだろうか。いやだけどソクラテスさんの、ってこれはいつまで続くんだよ。僕は馬鹿で、無知の知なんて適用されない。これが答えで良いじゃないか。無知の知、ってなんなのか、ちゃんとわかってもいないのだから。だから、それで良いじゃない。
と、そんなことを考えていると、電車が来た。二分って短い。
僕は電車に乗る。ガラガラ。人っ子一人乗っていない。なんてことはないけどね。何人か、見える。部活の朝練の人かな。学生だ。同じ制服。クラスメイトじゃない。多分。男子、女子。どちらもいる。僕より年齢は同じか上。四月一日生まれだし、これは確実だろう。その人たちは色々な人がいる。みんな座っているのが普通だろう、と考えるのは間違いだ。わざわざ立って、喋っている人もいる。立っている方が、喋りやすいんだろう。これは三から五人とかいう単位。他には思い切り寝ている人。これは一人から三人単位。座って喋っている人は、三人以下の単位。他には、勉強している人。携帯ゲームをしている人。読書している人。携帯をぽちぽちとやっている人。とてもはやい。どうしたらそのスピードで打てるのか教えてほしい。
と、そんな色々な人がいるけれど、結局、ガラガラ。十分に座れる。だから、僕は座る。それから電車に揺られて、駅に到着する。
電車を降りた。同時に、電車の中にはなかった風が、僕の髪を撫でた。
僕は眉をひそめた。
風が髪を撫でるって、なんか、やな感じ。
学校だぜ!
普通の公立の高等学校だぜ!
部活動が盛んらしく、今年の入部率は百パーセントらしいぜ!
僕、入ってないのにね! なんでだろうね! 不思議だね!
あと、進学率も結構良いみたい! 知らなかったけどね!
普通の高等学校と思っていたけれど、実は普通に良い学校みたいだね!
まあ、僕は関係なくて関係ないけどね!
高等学校があるってことは、低等学校もあるのかな! あるかもね!
――という妙なテンションでお送りするのは僕こと僕だ。
つまりは、冴輝真夜。
つまりは、男性。
つまりは、十五歳。
つまりは、職業、学生。
つまりは、久遠の式者。これは元だけど。
背はまあ普通に普通で、体格は普通よりも悪いかも。運動不足のせいで。もう、運動不足ってやんなっちゃうわぷんぷん。
血液型は何型か知らない。そんなこと気にしたことも無かったから。多分、AかBかCかABだと思う。間違えた。Cって何だ。こわいよ僕の血液型。いや、実際にあるのかもしれない、C型。知らないけど。
まあ、僕は四月一日生まれの人間ってことだ。四月バカだからといって、僕はバカじゃないけど。馬鹿だけど、バカじゃない。これは重要なことだ。僕の脳内精霊Dさんの心の内ではねっ!
とかなんとかいっちゃってー。僕はこんな風に面白おかしくつまんない毎日を過ごしたりしたりしやがっていたりしちゃうわけなんですよ。波乱万丈。そんな日々は今の僕にいらない。つまんない? けっこーけっこーこけこっこー。今のはキリンの鳴き声だな。ふは、意味がわかんないぜ僕。
あ、この日々がつまらない、っていうのは嘘だな。お姫様がいる。僕のこの日々には、お姫様がいる。それだけで僕の日々は一気に輝きまくる。宇宙上のどんな恒星よりも輝きまくる。僕の日々が核融合する。本当に、そんなくらい、輝く。熱く、眩しく、輝く。まあ、簡単に言うと、僕の日々からお姫様をとってしまえば、太陽が無い場合の地球上の人類みたいな感じだ。色あせる、なんてものじゃない。輝かなくなる、なんてものじゃない。太陽がなくなった場合の僕ら人類。そんなものの結末は、決まっている。死滅。それだけ。そんなことにならないように科学がもっと発展して、人工太陽がつくられれば、そんな心配はなくなるのになー。まあ、今の時点でつくられても熱すぎて溶けてしまいそうっていう比喩表現が現実のものになっちゃうだけだから勘弁願いたいけれど。
とにかく、僕にとってはお姫様は必要不可欠な存在で、大切で大切で大切な存在ってわけだ。あるのが当然。そう思ってしまうほどに。
――と、いうことで、学校。
朝練の人たちは見えない。部室にでも行っているのかな。と思う。というか、運動部の朝練よりも早く学校に来たのかよ僕。びっくりだよ僕。バカなのか僕。いいえ馬鹿ですよ僕。馬鹿って当て字だろうがバカが正確なんだよバカ。バカっていうな馬鹿と言え。アホ。だから阿呆と言えと何度言ったら。言ってないぞバカ、小学生からやり直せ。失礼なっ、子宮の中からやり直せの間違いだろ。えっ。
自問自答の自己嫌悪はやめにしよう。悲しくなる。色々と。
だからというのは間違っているけど、僕は南京錠がちゃがちゃロッカー開け靴履き替え勉強道具取り出しロッカー閉め南京錠がちゃがちゃ。というわけで、教室に向かおう。
電気があまり点いていないな、と思う。朝早いからかな。朝早いからだろう。思いながら、階段を上る。
一段飛ばしでタッタッタッ、とリズム良く階段を上る。ばてた。一段ずつ踏みしめて階段を上る。つーかーれーたーよーぅ。
僕の教室のある階。廊下。教室。ほとんど電気が点いていない。その中、一室だけ明かりが漏れているところ。僕の教室だ。
誰かいるのかな? こんな早くから学校に来るって、なんかすごい。理由はあるのかな。どうなんだろう。よくわからない。
僕は教室に向かう。挨拶、ってするべきかな? どうだろう。僕は普段、人に挨拶とかをしないから、困る。挨拶は、されたらする。その程度しか僕はしない。内気ですもの根暗ですもの僕ですもの。だから、挨拶をするのにも、こんなにも逡巡してしまう。簡単に言えば、しゅんくんとじゅんくんがけんかしてるのーだれかたすけてー。みたいな感じ。わかりやす過ぎて、僕の耳の穴から脳が飛び出してしまいそう。想像したら、気持ち悪くなった。ぐにゅぐにゅと耳の穴から脳が飛び出す。そんなのを想像すると、なんか、鼻の穴から眼球がぐしゅぐしゅになって垂れてきたのを想像したときと同じ思いが胸を圧迫する。うべぇ。気持ちが悪いぞよ。
なんか最近、僕の頭の回転が悪い意味で良い気がする。悪い意味で。すべからく悪い意味で。相対的に絶対的に悪い意味で。
「……どうしよ」
……。
挨拶、してみよっかな。
僕は少しだけ、そう思った。
はっきり言って、僕にそれは、けっこう難しい。
挨拶。それだけのことだけど、それだけのことだからこそ難しい。
ましてや、僕は僕だ。『僕』なんだ。それも、関係しているのかもしれない。
だから、息が詰まりそうになる。
僕は、『おはよう』という四文字。そのために口を動かすのが、できるかどうか不安になる。
僕はもう、『久遠』とは、実家とは、関わらないと決めたんだ。だから、社交的に。少しでも、社交的にならなくちゃいけないのはわかっている。
だから、挨拶を、してみようと、思う。
すぅーと、息を大きく吸う。深呼吸。すぅー……「ぇほっげほっごほっ!」むせた。息を吸って、むせてしまった。空気が気管に入ったからだ。そうに違いない。
……準備完了。深呼吸も一応はしたし、準備完了。
僕は、教室に向かって、いつの間にか止まっていた足を、動かし始める。
一歩一歩が、重い。
そんな風に、感じられる。
一歩一歩が、辛い。
そんな風に、感じられる。
教室の中が少し見える。
その見えた部分には、誰も見えない。誰もいない。
そういえば、一つの談笑も聞こえてこない。
ということは、一人、なのかな。それは、良かった。なんとなく、良かった。談笑中に、教室に入る勇気なんて、僕は持ち合わせていない。
そうして、僕は、ほっ、と息をついた。
直後、教室の扉がガラッ、と音を出して開いた。
「うおぅ!」
思わずそんな悲鳴を上げてしまった。超びっくり! 何! 何なの! 何が起こったの! むせたから? むせたからなの? くっそ何でむせたんだよ僕! 気管のバカ! 体中の血液に液体窒素を混ぜられたかと思ったよ!
「ひゃぅ!」
と、女性の声が聞こえた。女子生徒みたいだ。可愛らしい声。お姫様の足下にも及ばないくらいには可愛らしい声。多分、可愛らしい声。お姫様がこの声で悲鳴を上げるところを想像すると、可愛すぎてぺろぺろしたくなる。ってことは、この声も可愛らしいんだろう。お姫様の足下にも及ばないくらいは。
女子生徒は驚いて、ビクッ、と身を震わせながら、そんな声を出していた。顔は良く見えない。だって僕もびっくらこいたのでやんすから、仕方ないでやんす。やんすやんす。やんすやんすやんす――とか意味のわからないことを考えていると、
「……冴輝君?」
と呼ばれた。