神様の憑依先
「どうでもいいことを教えてやろう」
怪しげなおじいさんにそう言われて、僕は思わず立ち止った。そのおじいさんはいつ風呂に入ったんだろうと思わせるような格好で、道端に座り込んでいた。季節は夏。いくら朝だといっても、外は蒸し暑かった。
おじいさんの前には、汚い字で「うらない」と書かれた立て看板がある。立て看板は段ボール製で、雨に濡れたのかグニャグニャだった。
…話を聞いたら、お金を取られるパターンだろうか。しかし
「なんですか、どうでもいいことって」
どうでもいいなんて言われたら、かえって気になる。僕はおじいさんの前にしゃがみこんだ。
「ふふふ」
おじいさんは嬉しそうに笑うと、声をひそめた。
「神様はな、冬にはいないんじゃ」
…このおじいさんは、寝ぼけていらっしゃるのだろうか。僕の心配を知ってか知らずか、おじいさんは続ける。
「神様は、人のすぐそばにいる。ただし、冬はいない」
「どういうことですか」
「憑依ってわかるか」
「のりうつること、ですよね」
「そうそう」
おじさんは楽しそうにけらけら笑った。
「神様はな、何人もいるんじゃ。それこそ、生き物の数だけいらっしゃる」
「へええ」
神様は一人だけだと思ってた僕は、そんな考えもあるのかと感嘆の声を漏らした。僕のその声を聞いて、おじいさんは満足そうにうなずく。
「で、神様は人間を見守る存在でもある。それでな、人間を身近で見守るために、神様はあるモノに憑依しておるんじゃ」
「それはズバリ?」
「ゴキブリじゃ」
「…。」
僕は絶句した。おじいさんは本当に寝ぼけていらっしゃるのではなかろうか。あんなグロテスクなものに、神様が宿ってるなんて考えたくもない。
しかしおじいさんは、真剣な声で続けた。
「神様はわざと、ゴキブリに憑依しておるんじゃ。わざと皆から嫌われるような姿になって、皆の反応を見ているのじゃよ」
「…。」
「だからゴキブリは、家の中で生息していることが多い。人間の様子を、身近で見守るためにな」
「…。」
「ゴキブリの生命力が他の虫と比べて高いのも、神様が憑依しているせいじゃ」
「…。」
「お前、ゴキブリを殺したことはあるか?」
「まあ、そこそこ」
「神を殺したようなもんじゃ」
「…。」
僕は口をあんぐりと開けたまま、固まった。このおじいさんの発想がすごいのか、妄想がすごいのか、それとも本当の話なのか。僕にはもう分からない。
「神様は、慈悲深い人間を探しておる。たとえ醜い姿の生き物でも、…そう、ゴキブリにでも優しくしてくれるような人間をな。まあ、そんな人間なかなかいやしない。そう言うわしも、ゴキブリを殺したことなんて数えきれんくらいある」
「…ゴキブリを殺したら、地獄行きですかね?」
「そればっかりは、死んでみないと分からんわい」
おじいさんは愉快そうに、けらけらと笑った。
結局僕はおじいさんにお金を払うことなく、その場を立ち去った。
僕の後ろ姿を見ながらおじいさんが言った独り言は、僕には聞こえなかった。
「わしも神様の一人だということは、内緒じゃ」