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第1章 ドレイク一族と黒い羊

「俺は……出血している」

とルスランは思った。

「今度こそ、運も尽きたな……」

右肩と脇腹は、地獄のような焼ける痛みに襲われていた。だが右腕の感覚は完全に失われている。状態を確かめようとしたが、右目には闇しか映らず、左目には揺らめく紅の膜越しにしか景色が見えなかった。身体はまるで自分のものではないようだった。

銃声は聞こえる――だが遠く、鈍い。

頭は激しく回転し、意識は次第にぼやけていく。

灼熱の砂漠の太陽の下にいるにもかかわらず、冷たい感覚がゆっくりと身体を蝕んでいた。

誰かが自分を引きずっている。

まるで持ち上げられているかのように――

そして、突然すべてが闇に包まれた。

________________________________________

闇の中で、ひとつの記憶が浮かび上がる。

________________________________________

……17年前……

「父上、あの人たちは誰?」

父の肩に乗った10歳の少年は、テムズ川の橋の両側に押し寄せた群衆の歓声に目を輝かせていた。彼は行進する軍隊を指さしながら問いかける。

サー・ウィリアム・ドレイクは横目で息子を見て答えた。

「兵士だ、ルスラン。国家と我々の民を守る者たちだ」

ルスランは目を大きく見開き、口を開けたまま感嘆する。

「ここにいるみんなを守るの?

父上も? 母上も? ジャックもキャサリンも?」

ウィリアムは右側にいる妻マリオンに微笑みかけた。彼女は幼いジョナサンを抱き、娘キャサリンとともに微笑み返す。

「ここにいる人たちだけじゃないわ」

と母は言った。

「アルビオンのすべての人々を守っているのよ」

ルスランは母を見つめ、再び兵士たちへと視線を戻す。

その瞳には強い憧れの光が宿っていた。

________________________________________

強い光がルスランの目を射た。

誰かに運ばれている感覚がある。

部下たちの様子を確認したかったが、視線を定める力すら残っていない。ましてや首を動かすなど不可能だった。右肩と頭の右側に焼けるような痛みが走る。

ペンブローク伍長が彼を見つめ、何かを話しかけていた。だが言葉は理解できない。左腕を握る手の感触だけが、かすかに意識に届く。

次の瞬間、世界が回転し――再び闇に沈んだ。

________________________________________

……9年前……

「絶対に許さん!」

ルスランは、父がこれほど取り乱した姿を見るのは初めてだった。

「お前の人生を無駄にさせるものか!」

「これは俺の決断だ!」

ルスランも怒鳴り返す。

マリオンは夫と息子の間に入り、必死に仲裁しようとしていた。娘キャサリンは泣きじゃくる弟ジャックを抱きしめている。

「俺はもっと大きな目的のために生きたい!

人々を守るんだ、それがわからないのか!」

怒りに満ちてはいたが、その声は揺るぎなかった。

「お願い、落ち着いて話し合いましょう!」

マリオンが懇願する。

「人を助けたいなら生活を向上させる方法がある!

お前にはAutoLimb技術者としての才能がある。研究開発で貢献しろ!」

ウィリアムが言う。

「子供の頃からの夢なんだ。

人を守ることだ。研究室に座っているだけなんてできない」

ウィリアムは息子の献身を誇りに思っていた。だが父として、最善の人生を与える義務がある。軍に入れば――死ぬかもしれない。それどころかもっとひどいこともあり得る。

止めなければならない。たとえ関係が壊れても。

「軍に入るなら戻ってくるな!

その時はもう家族ではない!」

「ウィリアム、やめて!」

マリオンが叫ぶ。

「……そうか」

ルスランは背を向け、静かに家を出た。

ドアは静かに閉まり、その静寂が激しい怒鳴り声よりも重く響いた。

その後、ウィリアム・ドレイクはその場に立ち尽くした。

今までの人生で、あれほど後悔したことはなかった。

妻マリオンを見ると、彼女は絶望に満ちた涙を浮かべていた。

玄関ホールには、ジャックの泣き声が響き渡り、キャサリンの慰めの言葉が時折それをかき消していた。

________________________________________

ルスランが再び視界を取り戻したとき、空には星が広がっていた。

部下たちは、暗闇と寒さの中でも進み続けている。

休ませるべきだと命じようとしたが、声が出ない。

筋肉はほとんど感覚を失っていた。

必死に首を少しだけ動かすと、隣で担架に乗せられているペリー伍長が見えた。

右脚は膝より上で失われていた。

再びペンブローク伍長が現れる。

「耐えてください、ドレイク大尉……耐えてください」

その言葉に、ルスランはわずかに安堵する。

返事をしようとしたが、喉は完全に乾ききっていた。

ペンブロークは水筒を取り出し、水を飲ませる。

飲み終えた後、再び話そうとする。

「……状況……報告……を……」

言葉にならない。

「良くはありません、大尉」

とペンブロークは答えた。

「ですが、やり遂げます。約束します。今は力を温存してください」

視界は再び霞み、意識は闇へと沈んだ。

________________________________________

……9年前 ロンドン 陸軍訓練施設……

「よし、クズども! 気をつけ!」

教官の怒号が響く。

「気をつけと言っただろうが、この役立たずどもが! ヒヒの方がまだマシだ!」

新兵たちは整列し、前を見据える。

全員が足元に荷物を置いている。

ルスラン以外は。

彼はドレイク家から何も持ってきていなかった。

だが落胆はなかった。

人々を守る――そのためにここにいるのだから。

「俺はドイル軍曹だ!」

教官は続ける。

「俺に話すときは“軍曹殿”だ! “サー”じゃない! 俺は生活のために働いてるんだ! わかったか!」

「はい、軍曹殿!」

新兵たちは声を揃える。

「ほう、三語も並べられるのか!

もしかすると、漏らす以外のこともできるかもしれんな!」

ドイルは列を見て回る。

時折立ち止まり、怒鳴りつけたり質問したりする。

「名前は!」

「マルコム・オリバーです、軍曹殿!」

「出身は!」

「サマービルです、軍曹殿!」

「田舎者か! 畑を耕すのに飽きたか、それともヤギと寝るのに飽きたか!」

オリバーは答えられず固まる。

「村一番のバカか!」

「違います、軍曹殿!」

「だったら答えろ!」

「両方に飽きました、軍曹殿!」

笑いが起こる。

だがドイルの視線がそれを凍らせた。

「面白いか?

なら俺の趣味も楽しめるだろうな。勝手に笑う馬鹿を徹底的に痛めつけることだ!」

「笑った奴ら全員、腕立て伏せだ!」

全員が即座に従う。

________________________________________

ドイルはルスランの前で止まり、見上げた。

2メートルを超える身長と白髪は明らかに異質だった。

「その背丈と髪で灯台か何かか!」

「必要とあれば、そうなります、軍曹殿」

「いい返しだな! 名前と出身!」

「ルスラン・ドレイク、ロンドン出身です、軍曹殿!」

「ドレイクだと?

坊ちゃんが何で軍隊なんぞに来た! 親のコネも使えなかったのか!」

「人々を守るためです、軍曹殿!」

「場所を間違えたな!

ここは人を守る場所じゃない! 殺す場所だ!」

「守るためには犠牲が必要な時もあります、軍曹殿!」

ルスランは見下ろすようにドイルを見た。

その目には一切の迷いがなかった。

ドイルは一瞬言葉を失う。

「本気のようだな……見てやる」

激しい揺れがルスランの意識を引き戻した。

だが、それもかろうじてだった。

担架を運ぶ兵士たちは疲労困憊の様子だった。

休ませるべきだ――そう思う。

だがどれほど歩き続けているのか分からない。

一日か、それとも二日か。

太陽は容赦なく照りつけているのに、毛布に包まれていても寒かった。

部隊の衛生兵が彼のそばに現れ、状態を確認する。

何かを担架係に告げると、彼らは歩みを速めた。

ルスランの意識は再び遠のいていく。

そして――闇。

________________________________________

……9年前 訓練開始から3週間後……

その朝、ルスランは訓練司令官のオフィスに呼び出された。

部屋の中からは複数の声が聞こえる。

ノックをして待つ。

「入れ!」

ドイル軍曹のしゃがれた声。

ルスランは中に入り、直立し敬礼する。

「ルスラン・ドレイク訓練兵、報告します、軍曹殿」

「休め」

ドイルは言った。

「マッキンタイア司令官がお前と話したいそうだ。俺の顔に泥を塗るな」

そう言うと返事も待たず部屋を出て行った。

室内にはマッキンタイア司令官と、もう一人の男がいた。

二人ともルスランを観察するように見ている。

「ドレイク訓練兵」

マッキンタイアが穏やかに言う。

「こちらはアーヴィン少佐。陛下陸軍士官学校の責任者だ」

「サー!」

ルスランは再び敬礼する。

「休め、訓練兵」

アーヴィンが言った。

「ドイル軍曹がお前のことを推薦してきた。どうやら、並外れた訓練兵らしいな」

「……サー?」

ルスランは困惑する。

「ドイル軍曹は簡単に人を褒める男ではない」

マッキンタイアが続ける。

「それにもかかわらず、お前を士官学校へ推薦してきた」

ルスランは言葉を失った。

ドイルは常に彼を叩き、ミスを見逃さなかった。

それが推薦に繋がるとは思えない。

「信じられないか?」

アーヴィンが問いかける。

「はい、サー。

自分はミスも多く、未熟です。なぜ推薦されたのか理解できません」

「理由を教えよう」

マッキンタイアが言う。

「確かにお前はミスをする。だが同じミスは二度としない。

しかも他の訓練兵より遥かに少ない」

「理論成績は優秀、実技は記録更新だ」

とアーヴィン。

「3週間の訓練でこれほどの結果を出す者はいない」

「つまり」

アーヴィンは続けた。

「ドイルは原石を見つけたということだ。

白鯨でもユニコーンでも好きに呼べ」

ルスランは混乱していた。

マッキンタイアは書類を差し出す。

それは転属命令書だった。

「昇進おめでとう、“士官候補生”ドレイク」

ルスランは敬礼し、部屋を出る。

________________________________________

兵舎に戻り、荷物をまとめる。

一瞬立ち止まり、自分の状況を考える。

そこへドイルが現れた。

「軍曹殿」

ルスランは敬礼する。

「期待を裏切りません」

ドイルは完璧な敬礼で返した。

「幸運を祈る、ドレイク少尉」

その声には敬意があった。

ドイルは荷物を持ち上げる。

「付き添う」

ルスランは頷き、兵舎を出る。

________________________________________

外では、仲間たちが整列していた。

「昇進おめでとうございます!」

オリバーの号令。

「ヒップ・ヒップ、フラー!」

歓声が響く。

ルスランは敬礼し、その間を歩く。

帽子を深く被り、目の潤みを隠した。

________________________________________

……8年前 ロンドン……

士官学校を卒業した夜。

「最高の同期に乾杯!」

マルコム・ヒッチが叫ぶ。

「乾杯!」

20人全員が揃っていた。

「座れよ、そのうち倒れるぞ」

ルスランが言う。

「もう士官だぞ、気取るなよ」

ヒッチが笑う。

「ルスラン“完璧主義者”ドレイクだぞ」

カルミネが言う。

笑いが起こる。

ルスランはジョッキを一気に飲み干す。

「おお、飲めるじゃないか!」

「記録があれば挑む男だ」

イェーツが肩を叩く。

皆が笑う。

彼らは家族だった。

ルスランは再び目を覚ました。

意識は弱々しいが、はっきりしていた。

あの卒業祝いの夜を思い出す。

仲間たち――兄弟のような存在。

ヒッチは最初の任務で戦死した。

北アフリカで、迫撃砲の直撃を受け、遺体すら残らなかった。

イェーツは2年後に倒れた。

砂漠での狙撃。まだ20歳だった。

カルミネはさらに少し長く生き延びたが、スーダン戦争の初期に戦死した。

部隊輸送車が敵戦車の砲撃を受け、跡形もなく吹き飛んだ。

他の同期も同様だった。

20人のうち、生きているのは5人だけ――少なくとも彼の知る限りでは。

そして自分も、ここで終わるのかもしれない。

右肩が再び焼けるように痛む。

顔も同じように痛んだ。

衛生兵ルークが近づいてくる。

「落ち着いてください、大尉。もう一度点滴を入れます。痛み止めも」

針が左腕に刺さる感覚。

痛みは次第に引いていく。

そして再び闇が訪れた。

________________________________________

……3日前 スーダン砂漠……

戦争は激化していた。

ルスランはその地獄で2年間生き延びてきた。

第26歩兵中隊は多くの戦闘を経験し、勝利も重ねてきた。

だが戦争の終わりは見えない。

オスマン軍はなおも前進を続けていた。

アルビオン軍も同盟の遊牧民も、それを止められない。

ルスランの任務は、燃料輸送隊の護衛。

3日間の砂漠横断。

出発した時から嫌な予感がしていた。

まだ2日残っている。

さらに36時間は無線も使えない。

そのとき――

砂丘の上で閃光。

理解するより早く、ルスランは叫んだ。

「伏せろ!」

狙撃手だった。

だが標的は士官ではない。

先頭車両の運転手を撃ち、進行を止めた。

「全員戦闘準備!」

「ライフル兵、南東の砂丘を狙え!」

「機関銃、援護射撃!」

「運転手は全速前進!」

ルスランの声が響き渡る。

部下たちは即座に行動した。

しかし――

砂丘の上から次々と敵兵が現れる。

狙撃手は一人ではなかった。

連隊規模の歩兵。

戦闘は激化する。

敵の狙撃は続き、味方は倒れていく。

「大尉!押されています!」

「どうしますか!」

「撃たれました!」

悲鳴が響く。

「機関銃、継続射撃!

敵を砂丘に押し戻せ!」

機関銃が火を吹く。

敵は一時的に後退する。

だが狙撃手が再び3人を撃ち倒す。

その瞬間――

重い機械音。

誰もが知る音。

そして恐れる音。

戦車。

鋼鉄の怪物が砂丘の向こうから現れる。

「敵戦車!」

「散開しろ!」

だが遅かった。

機関銃陣地が吹き飛ぶ。

次も同様に。

部隊は崩壊する。

戦車は燃料輸送隊へ向かう。

護衛車両が瞬時に破壊される。

一台の燃料車が爆発。

炎と叫び声。

一台が砂に足を取られる。

運転手の恐怖の表情。

戦車が砲口を向ける。

ルスランは走った。

部下も続く。

だが――間に合わない。

「離れろ!!」

爆発。

破片が飛び散る。

サージェント・スターリングは真っ二つになる。

ペリー伍長は脚を失う。

そして――

ルスランへ向かう破片。

右肩に直撃。

焼ける痛み。

肉も骨も引き裂かれる。

吹き飛ばされる。

立ち上がろうとするが右腕が動かない。

さらに――

顔への衝撃。

右目は闇に沈む。

左目は血で覆われる。

力が抜けていく。

遠くから声。

「撤退!大尉を運べ!」

そして意識は消えた。

ルスランが再び意識を取り戻したとき、視界に映ったのは青空ではなかった。

代わりに見えたのは、布製の天幕だった。

横たわっている――野戦病院の担架の上だろうか。

負傷したことは覚えている。

だが、それ以上は曖昧だった。

左腕に針の感触。

視線を向けると、輸血用の血液と生理食塩水のボトルが繋がれていた。

頭はまだぼんやりしている。

起き上がろうとするが、両腕で支えることができない。

右腕の感覚は依然としてなく、肩だけが鈍く脈打つように痛んでいる。

鎮痛剤の影響で思考も鈍っていた。

周囲を見渡すと、担架に横たわる負傷兵たちと、それを行き来する衛生兵たちの姿があった。

その中にペリー伍長の姿を見つける。

彼女は隣の担架に横たわっていた。

太腿の断端は包帯で巻かれているが、まだ血が滲んでいる。

彼女も輸血を受けていた。

そこでようやく、ルスランは自分の状況を理解し始める。

自分も輸血を受けている。

それほどの負傷――

右腕を動かそうとする。

だが感覚はない。

右目は闇のまま。

左腕は点滴で動かせない。

焦燥が心を締め付ける。

無理やり起き上がろうとした瞬間、近くにいた衛生兵が駆け寄ってきた。

「ドレイク大尉、動かないでください。再出血の恐れがあります」

「部下は……どうなった?」

かすれた声で問いかける。

「……申し上げにくいのですが」

衛生兵は目を伏せる。

「100名中、帰還したのは24名です。そのうち4名はここで亡くなり、11名が負傷中……重傷者は3名。あなたもその一人です」

「……そうか」

短い沈黙。

「俺は……どうなった?」

「破片による負傷です。戦車の砲撃で爆発した燃料車からのものです。覚えていますか?」

「……ぼんやりと」

「頭部の衝撃による脳震盪です」

「右腕が動かないのは?」

衛生兵は一瞬言葉を選んだ。

「……医療指揮官から説明があります」

その表情ですべてを察する。

良い話ではない。

________________________________________

しばらくして、医療指揮官ハクスリーが現れた。

「おはようございます、ドレイク大尉。私は医療部隊のハクスリー少佐です」

「おはようございます、サー」

起き上がろうとするが止められる。

「無理をしないでください」

「……自分の状態を教えてください」

ハクスリーは一瞬言葉を選ぶ。

「辛い話になります。必要なら途中で止めてください」

ルスランは覚悟を決める。

「大尉、あなたは高速で飛来した破片を2度受けました」

「2度目は顔面右側です。脳震盪を引き起こしました」

一拍。

「右目は……失われました。眼球は破裂し、除去せざるを得ませんでした」

ルスランは言葉を失う。

「顔には額から顎にかけて大きな裂傷があります。今後、奥行きの認識に問題が出るでしょう」

そして――

「もう一つの負傷ですが」

ルスランの心臓が強く打つ。

「右肩です」

「……使えるのか?」

ハクスリーの目がすべてを語っていた。

「……申し訳ありません。右腕は失われました。肩関節から完全に切断されています」

その瞬間、胸を殴られたような衝撃。

呼吸が乱れる。

起き上がろうとするが止められる。

左手で肩を探る。

そこにあるはずのものは――なかった。

力が抜ける。

声も出ない。

「落ち着いてください、大尉!動けば命に関わります!」

だがルスランは完全に虚脱していた。

「生き延びたのは奇跡です。3日間の搬送も含めて……あなたは非常に運が良い」

「……ああ、そうだな」

感情のない声。

「休んでください。明日、上官が来ます」

________________________________________

ルスランは天幕の天井を見つめ続けた。

希望は――消えていた。

翌日、ルスランはほとんど眠れなかった。

痛みは薬で抑えられていたが、失われたものの重さは消えなかった。

朝、天幕の入口が開く。

入ってきたのは、見慣れた制服の男だった。

「ドレイク大尉」

「……マッキンタイア司令官」

ルスランはかすかに敬礼しようとするが、途中で止まる。

「無理をするな」

マッキンタイアは静かに言った。

しばしの沈黙。

「報告は受けた。よく戦ったな」

「……任務は失敗しました」

「違う」

短く、しかしはっきりと否定する。

「お前は部隊を壊滅から救った。生存者がいるのはお前のおかげだ」

ルスランは何も言わない。

「帰還命令が出ている。ロンドンへ戻る」

その言葉に、胸がわずかにざわつく。

「そして――もう一つ」

マッキンタイアは視線を落とす。

「お前は前線任務から外される」

沈黙。

「……当然です」

感情のない声。

「不服か?」

「いいえ。

……もう、戦えませんから」

その言葉は、あまりにも静かだった。

マッキンタイアはしばらく彼を見つめる。

「ドレイク」

「はい」

「お前は終わっていない」

即答だった。

ルスランは初めて視線を上げる。

「軍には様々な形の戦いがある。前線だけではない」

「……ですが」

「聞け」

強い口調で遮る。

「お前のような人間を、ここで終わらせるほど軍は愚かではない」

ルスランは言葉を失う。

「しばらく療養しろ。

その後の配置は本国で決まる」

「……了解しました」

________________________________________

数日後、ルスランは輸送機に乗せられた。

担架のまま、静かに。

エンジンの振動が体に伝わる。

窓の外には、どこまでも続く砂漠。

あの地で多くの仲間が死んだ。

自分は生き残った。

だが――

右腕はない。

右目もない。

もう二度と、あの頃の自分には戻れない。

目を閉じる。

暗闇の中に浮かぶのは、かつての光景。

橋の上。

兵士たち。

そして幼い自分。

「ここにいるみんなを守るの?」

あの問い。

その答えは、もう分からなかった。

________________________________________

輸送機は雲を抜ける。

その先にあるのは――

新しい戦場か。

それとも終わりか。

まだ誰にも分からない。


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