001/002 「滅びねーかなこの世界」
朝。
エスコーター業として規定されている週休の日。
ベッドから起きた神谷は首を回し、カーテンを開ける。
空は快晴、都心から程よく離れた田舎一歩手前の住宅街の空は規定によりドローンも飛行能力を持つ種族も飛行を許されていないため、穏やかなものだった。
昨晩挑戦してみたホットサンドメーカーでの料理と調理器具の残骸がビニール袋に包まれたキッチンで、唯一使用感のあるコーヒーミルを取り、リモコンを操作する。
吸排気用の窓が動き、朝の気持ち良い風が部屋の心地よさを上げる。
仕事はなく、予定もない。
空は青く、風は穏やか。
(んん、いい朝だ。
こんな日はちょっと良い豆を使ってニュースでも見て時間を浪費するか。)
軽く口を洗った後、トレイに器具を乗せてリビングへ向かう。
袋に詰まった豆とコーヒーミル、フィルターがセットされたコーヒーメーカーをテーブルに並べ、ソファーに座ってテレビをつけた。
テレビの中では朝の情報番組のキャスターが天気予報を終え、ニュースの報告に移るところのようだ。
「それでは本日のニュースです。
先日競馬場前でデモを行ったケンタウロス種の方々の団体の依頼により、本日地方競馬場でテストランが行われるとのことでした。
『あんなに気持ちよさそうに走ってるのがうらやましい』
『我々だって人を乗せて走るくらいできるから競馬場を走らせてくれ』とのことでしたが、現役ジョッキーからは……
『前傾姿勢を取った時、人の背中が目の前にあるのは違和感がすごい』
『いくらなんでも人の顔にハミはヤバい。いや、男なら良いわけじゃなく』
などの苦言が山のように寄せられ、却下になりそうだったようです。
そんなところを農林省役員の経験によるアドバイスにより、歌舞伎町のソフトSM勤務の女性に乗馬経験を積んでもらうことで何とかしようとなり、今回のテストランとなりました。
昨日のプレテストではジョッキー、騎乗馬ともに笑顔が溢れていたとのことです。」
豆を挽き終え、フィルターの上に粉になった豆を平す。
耳に届いた情報は既に聞かなかったことにしている神谷にとって、いつもの行動を阻害する要因など存在しない。
そんな神谷の努力をそのままに、テレビの中ではキャスターの報告に対し、コメンテーター役の芸人が声を上げていた。
「そうそう、競馬場って言えば、この前の中央競馬でもこのヒトたちやらかしてましたわ。
俺もその場に居ってん。
あれ、ニュースになりませんのん?」
「はい、佃さん、ありがとうございます。
こちら馬主さんからもお話が聞けましたのでせっかくなので続けていきますね。
東京競馬場、メインのG1レースの後、ケンタウロス種の青年が優勝馬、カミノイッセイ号に対して求婚をする場面が見られました。
ケンタウロス種の青年、ロブスキュ氏によれば、
『我が故郷でもこれほどに美しく走る女性は見たことがない、是非とも我が一族へ迎え入れ、我が妻になって欲しい』とのことでした。」
「G1馬に求婚とは、豪気なやつでしたわ。」
「はい、馬主の上野氏も、『今回のG1を取れたことでほぼ繁殖牝馬となることが決まっているので、それはちょっと……』とのことです。
降って湧いたロマンスに、厩務員や競馬ファンからは賛否の声が飛び交っているようですね。
では、次のニュース。」
ドリップケトルによるゆったりとした注湯により、苦味と旨味を抽出した黒く芳しいコーヒーをガラスコップに淹れると、ほんの少しのミルクと砂糖を溶かし、口に含む。
神谷が窓から見上げる空は、朝起きた時と変わらず美しい青さを湛えていた。
「……………あぁ、滅びねーかなこの世界。」
思わず呟いた言葉には、疲労感と実感が生々しくこびりついていた。
もしもノアがいればツッコミが入ること間違いなしな独白に、ため息を吐いて頭を掻くと神谷はカップに残ったコーヒーを飲み干す。
もはや見る気もなくなったテレビの電源を切り、カップを流し台に放り込むとジャージに袖を通した。
休みの日、のんびりダラダラするにしても一日だけで十分。
二連休の前半に当たる日なのでしっかりと動くかと、神谷はボトルと財布、スマホだけを入れたバッグを肩にかけ、外に出た。
移動先は、市の運動公園。
汗をかけば午後は食べ放題に行っても良しと自分のカロリーバランスに言い訳をして外へと足を踏み出した。
息を整えながら街中を走り、じんわりと汗をかくことを楽しむ神谷。
目的地として設定した運動公園に向かう足は淀みなく、法により魔力は使用できずとも長身の神谷の体をテンポよく弾ませている。
街を走る神谷の視界に入ってくる世界は召喚という災害が周知のものとなる前と大きく変わってはいない。
信号があり、ガードレールがあり、自販機があり、家があり、看板があり、人が行きかっている。
数多の人たちの苦労と失敗から作られた土台の上、日本は「日常」を大きく変えることなく続けることができている。
「おっす、神谷のにーちゃん。」
「おう、仲間さんとこの坊主か。
今日は少年野球か? がんばれよ。」
自転車かごに野球道具を入れて走る小学生と少しの間並走し、お互いの健闘を祈り合う。
「カミヤサン!
キョモ、イロオトコ!」
「おぉ、カベル。
バイトはがんばってるか?」
「ダイジョーブ!
テンチョイイヒト!」
「おう、この前飲んだ時褒めてたぞ。」
しっぽのたたみ方を教えたこともある狼の特徴を持つ異世界人とあいさつをし、バイトを頑張っていることを褒める。
「隼、あいかわらず元気だねえ。」
「ばあちゃんこそ、この前の市の発表会、良い演奏してたよ。」
「なんだってぇ?」
「聞こえないふりしても、一回しか褒めないぞ。」
「ふん、からかいがいがないねえ。」
長年、街の一角でタバコ屋を営む老婆と言葉を交わす。
どれもこれもが神谷にとっての日常で、帰る場所で、変わっていく風景だ。
重りとマスクのおかげで良い負荷を受けた神谷の体は息を弾ませていて、運動公園につくと既に息は上がり始めていた。
入り口にスマホをかざし、住民としての照合をすませると公園内に入る。
屋内練習場、プール、トレーニング機材が置かれた屋根だけがついたジム。
市長が国から予算をむしり取ることで作られたそれらはすべてが埋まるというほどではないにしても、それなりの人が利用をしている。
(ウエイトは、良いか。
何も考えたくないし、人もいるし。)
それなりに人のいる機材から目を放し、神谷は広々としたトラックの内側に足を進める。
トラック内部の芝部分にジャージの上と荷物を置くと、一周400mのトラックを走り始める。
何も考えず、じんわりと重くなり続ける両手足、そしてベストの重さを感じながら、トラックの色の変わる部分でランのペースを変える。
小走り、全力、8割、小走り。
ペース走というには適当なそれは、神谷にとっては何もしていない空虚感を消すための行為でしかなかった。
汗で張り付くマスクによる呼吸の難しさも神谷にとっては致命的な負荷とはならず、現状維持にちょうどいい程度の負荷だった。
二周走ってマスクをずらし、二口ほどボトルから水と空気を含む。
そのペースを続け、ボトルが空になった時、思考をせずに体だけを動かしていた神谷はやっと足を止めた。
気づけばシャツは汗を滴らせ、ジャージのズボン部分の腰までぐっしょりと濡らしていた。
大量の汗に、神谷の何処か追われるような焦りは溶けていた。
すっきりとした面持ちで歩き出す。
そうしてクールダウンのためにのんびりと、レーンの最外を歩く神谷に声がかけられた。




