浮島編1
塾講師を辞めると切り出したとき、母は迫りくる憂いをやり過ごすように同意した。
2019年3月、この頃母は、姉が遅い結婚により実家を出たせいか、よく私を外食へ連れ出した。およそ二十年前離婚した父が果たすはずの、そばで寄り添う役割を私に求めていたのかもしれない。
平塚駅ビル最上階のレストランで二人、出された胡麻をすり鉢でごりごりとすり潰した。それを見た周りの客も真似て、ソースに混ぜる白い粒をすり始めた。人によっては気恥ずかしい動作かもしれないが、私はまったく気にしなかった。四十手前で独身、金も地位も恋人もなく、もはやスーツより作業着を着ることにもためらいを感じなかった。
「いつか車を持って、運転手も雇えるといいね」
母のあまりにもわかりやすい成功のイメージに、決して安寧とは言えない状況ながら、つい笑いをこぼしてしまった。
学習塾業界は、宝ともいえる数多くの体験を私にもたらしてくれた。アルバイト講師が時間外無給の予習をこなすとき、ひなの成長を願う野鳥のように力強く見守ってくれた。
「お辞儀は俺が一番うまい」と大真面目に語る教室長がそれを実演するとき、膝がくの字に曲がっていて、お笑い芸人のシュールなコントを連想させた。
月百四十コマの授業を消化したとき、あるベテラン講師はそれより四十も多いコマ数により、その安定した実力を示した。
ただし、塾への不平を一方的に並べるのはフェアではない。もちろん、感謝すべき点もある。塾側は慈悲深くも、慢心して二十代の尖り方を続ける自分に、集団授業を割り当ててくれた。何の偶然か、最後の授業では、浪人していた当時突破できなかった、第一志望の大学の過去問を扱った。
回想的な記事はときに、思い起こすつもりのない記憶をも引き出すことがある。私はその最後の授業をする6月までの三か月間、塾に籍を置いたまま休職していた。なぜそのような奇妙なスケジュールを立てたのか、今ではまったく思い出せない。その間、何をしていたか。
塾に勤務するふりをして、藤沢に借りた自習室で一人、長編ミステリーを執筆していた。
まとまった期間、社会との接点を絶つことを、母に対してうしろめたく思っていたのだろうか。仕事という義務感を失う中、夕方十七時半まで眠りを貪ったときは、さすがにバレていたのだろう。
のちにネット上で数十人の読者を獲得できた拙著、「胡乱の者たち」に、私は盲目的な期待を寄せていた。世界でも類をみない密室トリックにより、今度こそ必ず作家デビューする。自分への過大評価からくるこの妄想だけが、次から始まる工場勤務への不安をかき消してくれた。
塾でのキャリアを終えた日、アルバイト講師のリーダーと軽く別れの言葉を口にし合った。教室長、──先の「世界で最もお辞儀のうまい教室長」とは別人──は姿を現さなかった。休職中、生徒の一人が志望校合格を逃したことで、教室長が一度電話で問い詰めてきた。彼がそのことで、私との最後の対面を避けたのか、今となってはわからない。