序1
日々膨らむ不安は、やがて一つの物語を成す。
社長が家まで車で乗りつけるのは数か月ぶりだった。産業道路を越えたさらに南、第一埠頭から吹く風は大抵強い。しかしその日、川崎区には珍しく、風に踊るビニールが顔の横をかすめはしなかった。
翌日の仕事は静かにかつ、着実に忍び寄っていて、残りわずかな日曜を藍色に染めている。いつものトールワゴンでない軽自動車の赤いランプは、夕暮れの闇一直線に私の目をとらえた。
「社長、車替えたのかな」
それが、会社の穏やかでない事情を表しているとは、そのときまだ気づかなかった。
コインランドリーの明かりを浴びた車の中を助手席側からのぞいてみる。思った通り、金村社長が以前よりせまい運転席に巨体を収めていた。
季節が何度か変わる時間が過ぎていたとはいえ、お疲れさまです、と言いながら車内に滑り込む動作を、体はまだ記憶していた。大食漢を包むアウトドアのTシャツが案外洒落ているという印象も、それまでのこの用談の例にもれなかった。
社長はまず本題を切り出さず、コロナ対策により中小企業が受けた支援金の話をした。川崎りんかい実業株式会社。職場では、りんかい、または、りんかい実業などと呼ばれるが、この呼び名があまねく世間に広まるには、無限の時間がかかるのだろう。
「去年は感染対策の助成金があってな」
りんかい社長金村の口ぶりは相変わらず、ひいきにしているカレー屋の話でもするかのようだった。ただ、今思えば、その陽気な会話の底に、混ざらない層として動かしがたい悲哀が沈んでいたのかもしれない。
「それまでは、税金の支払いも厳しくなかったんだよ」
少しずつではあるが確実に重みを増していく話に、私の体と心が、何か不吉な固い物質になっていく気がした。
「去年まではな、滞納金払う期限を先に延ばせたんだよ。だけどな、コロナがインフルエンザと同じ5類感染症になってから、税務署が待ってくれなくなったんだよ。それで俺、社労士に言ったんだよ。こんな税金、うちは払えませんよ、って。そしたら、政府は潰れる会社はどんどん潰れてしまえ、っていうスタンスだ、って言ってきてな。それでさ」
羽振りがよかった頃の社長を覆っていた、あの自信をともなう安泰はすでに崩れ去っていた。次の言葉と同時に現れたのは、追い詰められた男の、照れ隠しとも思える弱々しい笑みだった。
「西松さんさあ、金貸してくんない?」
一瞬の後、私は前のめりになりながら笑い声をあげた。笑っておいた方がいいと思った。これは、つい相手に調子を合わせがちな、自分のむなしい気づかいだった。
「笑ってくだせえ」社長は苦しみの間からしぼり出した笑顔のままでいた。
「いくらですか」「いくら出せる?」
たまたま持っていたスマートフォンで、証券会社のアプリを開く。長野への出張で貯めた金は三百万近くあった。しかし。
「最近の暴落で、株価下がったんですよ」「でも、また戻しただろ」
確かに回復はしたものの、含み損は抱えたままである。それに、中途半端に手を出したアマゾンビジネスもあり、トータルで50万ほど消し飛んでいた。
私が総資産の額を告げると、社長は言い出した。
「もちろん、色はつけるよ。借りてる間、給料に業務手当二十万をプラスする。ただ、振り込めるのはプラス十万な。もう十はプールで貸しといてほしい」
プールという言葉をあまり聞いたことはなかったが、要は、プラス二十のうち、十は毎月支払われる。残り十はこれも借りで、いつか余裕が出てきたときに払う、ということらしい。
「来年、25年末までの辛抱なんだよ」恰幅は良いままの男がこう付け加えたとき、私は頭で大まかな計算を試みた。
我々派遣社員の給料は、手取りで月大体二十万円。ボーナスはないに等しい。
仮に向こう一年間、社長の申し出の通り手当が支払われたとすると、増額分百二十万を上乗せした年収は三百六十万。プールも加えると四百八十万に達する。これは、すぐ前に打ち明けた私の全財産のほぼ倍である。