第9話 オセロの四隅は黒
「本物のオーナーって、今どこにいるんですか?」
珠子が恐る恐る尋ねると、アンリは平然と答えた。明日の天気を答えるような軽快さで。
「オーナーはわたしですが」
「え⁉」
「従業員の彼でしたら、所用で出かけています」
「じゃあアンリ先生がルーシッドさんのふりをしていたってことですか?」
「そうです」
あっさりと認められたことに、珠子は一瞬言葉を失った。
「なんでそんなややこしいことを……」
「ホーガンロチェスターくんが色々と嗅ぎ回っていたので、びっくりさせてあげようかと」
「ええ……?」
訳の分からない理屈に、珠子は頭を抱えた。アンリの笑顔はいたずらを企む子どもよりも底知れない。
「で、リズワン先輩はたどり着きそうなんですか? アンリ先生がルーシッドさんになりすましていたって」
「まさか。わたしがそれを許すとでも?」
依頼を取り下げた方が賢明ですね、とアンリは笑った。
「あなた、どうしてここで働いているんですか?」
「そりゃあルーシッドさんが第一発見者で、ご厚意に甘えたんです」
「どうして学園に来なかったんですか?」
「わたしを召喚したのが誰か分からなかったからです」
ここ十年の間に魔法がどれだけ進歩したのかは分からないが、禁忌とされる召喚術がそう簡単に使われるはずがない。
珠子が二度目のニーデラーナで最初に見たのは、ドムス・ヴェネニの薄暗い一室。視界の隅にちらついたのは召喚術の魔法陣ではなく、移転術のような光だった。
無差別な召喚ではないとしたら、珠子は別の場所で召喚され、ここに飛ばされたのかもしれない。動機は不明だが、誰かの意図がなければ、珠子がニーデラーナにいる理由が説明できない。
「なるほど」
「そういえば、アンリ先生、学園の理事辞めました?」
「よくご存じですね。飽きたので辞めました」
「飽きた⁉ まあ、それはいいんですけど。アンリ先生がいない学園に行っても保護してもらえるか分からなかったってのもあります」
「あなたの存在は伝説級ですから。わたしがいなくても保護はしたはずです。女性の卒業生は本当に稀ですから」
「だから! 誰を信用したらいいか分からなかったんですってば!」
呑気なアンリは「それもそうですね」と他人事のように笑った。こちらの不安も知らないで。
「でも、珠子さんの判断は賢明だったと思いますよ」
「え?」
「確かにあなたの置かれた状況では敵味方が判断できませんからね」
アンリは見た目こそ若々しいが、人間とは異なる時間の流れを生きる長命種だ。思考だって、理解できることの方が少ない。
「……わたしが誰に召喚されたか分かりますか?」
「何者かに召喚されたと思っているんですか?」
「それ以外にニーデラーナに来る方法がないです」
「確かにそうですね」
「一応聞きますけど、わたしは日本に戻れますか?」
「残念ながら、あの魔法は一度しか使えません」
「ですよね」
想定通りの答えだったが、改めて突きつけられると胸が締め付けられる。涙は出なかった。代わりに、喉の奥でなにか重いものが引っかかった。
「それにしても、アンリ先生がここのオーナーって、偶然にしてはできすぎていません?」
「偶然なわけがないでしょう」
「え?」
「万が一を考えて、タマコさんの魔力を感知できるようにしていたんです」
「え、そうだったんですか?」
「ルーシッドがあなたを保護した直後にここを買い取りました」
「え?」
「タマコさんがわたしにコンタクトを取ろうとしたらひょっこり顔を見せるはずだったのですが」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「あなたがここで働くというので、おかしな客が来ないように見張りながら少し様子を見ていました」
「えぇ⁉ は、早く言ってくださいよそういうことは! 不安だったんですよ!」
情報が土石流のように押し寄せてきた。
アンリは珠子の魔力を感知してすぐにヴィトリオルムとドムス・ヴェネニを買い取って事実上のオーナーになった。実際に店を仕切るのはルーシッドだが、客が来ようが来なかろうがアンリにとってはどうでもいい。適度に人が来るよう、会員制にして審査を厳しくしただけ。客は全員、本物の金持ちだそうだ。
珠子としては、せめてもう少し健全な店にしてほしかったが。
「わたしの居場所が分かっていたなら、なんで早く声をかけてくれなかったんですか⁉」
「タマコさんが学園関係者と関わろうとしていない可能性を考慮しました」
「それは」
「あなたは賢い。返還術が一度きりの魔法だと正しく理解していた。あれが失敗することを第一に考えて、この国で暮らす覚悟をしていた。だから、必死に魔法を勉強していたのでしょう?」
アンリの言葉は図星だった。
ニーデラーナで過ごした数年、珠子は日本に帰れない前提で魔法を学んでいた。自分にとって唯一の武器となるのは「魔力を持った女」という自分の身ひとつのみ。財産もなく、常識もない。見知らぬ世界で生き抜くには魔力を磨くしかなかったのだ。
魔法省との約束はあったが、ちっとも期待はしていなかった。物語の主人公のような都合のいい展開は期待できない。
この国の魔法はファンタジーではないのだ。新しい薬を開発するのが難しいのと同じで、見たことも聞いたこともない未知の世界に人間を戻すという前代未聞の研究が成功する確率は限りなくゼロに近かった。
しかし、珠子は運よく日本へ戻ることができた。でも、それはたったの一年で終わりを迎えてしまったけれど。
「なんか、夢みたいでした。日本に戻れたことが」
「戻らない方がよかった?」
「……どうですかね。それは分かりません」
夢ならば夢のままでいてほしかった。現実に戻された珠子は幻想を捨て、再びニーデラーナで生きる覚悟を迫られたのだから。
「まあ、結果オーライだったことにしますけど」
「ニーデラーナに戻ってよかったと?」
「まだ決めつけるには早いですけどね。悪くないですよ。今の暮らしも」
正直、日本に戻ったあとの記憶は薄い。ニーデラーナに馴染みすぎて、魔法のない暮らしを少しだけ不便に思ったことだけは覚えている。
「それにしたって、よくここで働こうなんて気になりましたね」
「とりあえずお金はあった方がいいかなって」
「若いあなたには少々刺激が強いかと思いましたが」
「……まあ、わたしも色々と経験していますから」
淡々と返す珠子にアンリは目を細めたが、追及はしなかった。
「特定の人間を召喚することってできるんですか?」
「古の召喚術では無理な話ですね」
「じゃあ誰かが秘密裏に召喚術の研究を続けていたとか」
「わたしが知る限りではそのような情報は入ってきていません。タマコさんの件があって以来、魔法省が禁術の扱いを見直しましたから。書物を所持するだけでも重罪ですよ」
「わたしが帰ったあと、ほかに召喚された人っていますか?」
「いませんね。わたしが把握している限りは、ですが」
「……アンリ先生、実はなんか知ってる?」
「わたしから言えることはなにも」
珠子にはアンリがはぐらかしているようにしか思えない。でも、彼の芝居がかった物言いは今に始まったことではなかった。
珠子がアンリを無条件で信頼する理由は、彼が後見人となった際の誓約書にある。あれがまだ有効であれば、アンリは珠子に隠し事ができないはずだ。
「犯人が分かっても、もう日本には戻れないんですもんね」
「そうですね」
「今の生活を続けたら危険ですか? 誰かに狙われたりしますかね」
「わたしがいる限り、それはないかと」
「……ずいぶんと頼もしいですけど、それはどうしてですか?」
「店には認識阻害魔法を施していますが、タマコさんには別の魔法をかけています」
「え」
「あなたの姿が理想の女王様に見えるおまじないみたいなものですよ」
「え?」
「タマコさんの元の顔をご存じの方には効果がありませんが、初対面の方であればそれぞれが違う顔に見えているはずです」
「それって」
「認識阻害魔法を応用したものです」
アンリの魔力量は底知れない。それにしても、複数の魔法を常時かけ続けるなんて、普通では考えられない芸当だ。
「顔を知られている相手には効果がありませんので、それだけはご注意ください」
「認識阻害魔法を二十四時間かけ続けているのに、わたしにも同じような魔法を? いつから?」
「あなたがこの店で働くと決めてから」
「そんなに前から⁉」
「ほほほ。そうです」
「疲れません⁉」
「まあ、慣れていますので」
アンリが無茶をしている様子もなく、いつも通りの飄々とした態度だった。まるで、魔法をかけ続けるのが朝のコーヒーを淹れる程度のことに思えるらしい。
「そういえば、なんでデリク先輩を客にしたんですか?」
「最初こそ少々強引でしたけど、うちの客になるための条件はすべてクリアしています。あとはタマコさんがどうにかするだろうと思いまして」
「どうにかって……」
再会時の苦労を思い出し、珠子はため息をついた。アンリは「うまく手懐けたじゃないですか」とにやついている。
「地位があって、金払いがよくて、口が堅くて……いい客ですよ。そもそも、人に言いふらすような嗜好でもない。言って回っているとしたら、いい趣味をしているとしか思えません」
「散々な言われようですが、まあ、今はいい子にしているみたいですけどね」
「まるで忠犬ですね。タマコさん、才能があるんじゃないですか?」
「やめてくださいよ……」
「残念でしたね。鼻の利く男に見つかって」
「見つかる前にどうにかごまかしてほしかったですけどね」
ちっとも残念そうではない。そもそも、適当な理由をつけてデリクを会員にさえしなければややこしいことにはならなかったはずだ。珠子がぼやくと、彼は「もったいない」と笑った。
「プライドの高い男が変装もせずに堂々とSMクラブに乗り込んでくるなんて、面白いじゃないですか」
アンリは高らかに笑った。
魔法科の生徒たちは揃いも揃って胡散臭かったが、その筆頭はこの男だと、珠子は今さらながら思い出した。