第35話 眠れる犬は起こすな
目覚めたとき、珠子は日本にいた。それも、夢や幻だと疑う余地のないほど見慣れた自分の部屋だった。
カーテン越しの朝日。壁に掛けた時計。床に置きっぱなしの鞄。どれもが正しく、過不足なく、珠子が記憶している「昨日」までの延長線上に存在していた。
気づけば身体が、いつもの順序をなぞっている。
朝食はトーストにマーマレードジャム、そして一杯の牛乳。特別でもなんでもない献立を、珠子は黙々と口に運ぶ。噛んで、飲み込んで、それで終わりだ。味を確かめることもなく、ただ身体に流し込む。甘いとは思ったが、それ以外は記憶に残らない。
使った皿とコップを洗わずにシンクへ置き去りにして、後始末を十数時間後の自分に託した。
鞄を掴んで家を出る。駅までの道、改札の音、ホームに立つ人々。到着した電車は、案の定満員だ。でも、それもすべて見慣れた光景でしかない。
人は他人に興味がないし、珠子も同じだった。でも、この車両に押し込められたほぼ全員が、名前も知らないまま同じ鬱屈を共有する戦友でもある。
誰もが揺れに合わせて身体を預け、同じ角度で立っている。その様子が、なぜか不自然に揃いすぎて見えた。
互いに目を合わせることはなく、それでも同じ時間に、それぞれの場所へ向かっていった。
窓の外を見る余裕はない。見知った人間と最低限の会話を交わし、定刻になるまでを機械のように過ごす。それが珠子にとっての日本での過ごし方であり、疑いようのない日常だった。
――そのはずだった。
ジジッ、という電波が途切れるような音がした。朝ほどではないが、それなりに混雑した電車に乗る直前のことだ。
違和感は音よりも先に視界に現れた。世界が、少しずつ色を失っていく。人の服も、広告も、床も壁も、彩度を削がれたようにくすむ。目を擦っても、状況は変わらなかった。
それは一気に壊れるのではなく、ゆっくりと、不可逆的に進行していた。まるで、荒れ地に放置された建造物が風化して崩れ落ちるのを、誰かに早回しで見せられているかのように。
車両が、落下する。そう感じたときにはもう、足元の感覚が曖昧になっていた。
珠子は反射的にスマートフォンを取り出す。画面に表示されたデジタル時計は、数字が重なり合い、崩れ、意味を成していなかった。
――ここは、どこ?
疑問が形になるより先に、世界は完全に裏返った。
珠子は、自分が覚醒したのだと瞬時に理解した。
目を開ける前から、記憶が押し寄せてくる。客から渡されたお香。火をつけた瞬間の香り。引きずり込まれるような眠気。そして、深い、深い闇。
ゆっくりと瞼を開く。まず視界に入ったのは天井ではなく、白い布だった。自分が身につけているのは、患者が着るような簡素な服。腕には細い管が繋がれている。
空気が違う。夢の中の日本と決定的に違うのは、匂いが分かることだ。
視線を動かすと、真剣な表情のアンリとヴェスルがいた。その少し後ろで、壁に凭れるように立っているのはラスロのはずだ。
「目が覚めたか? 眠り姫」
軽口とは裏腹に、空気は張り詰めている。
「え?」
喉が乾いて、声がうまく出ない。体を起こして水を飲み、手を握ったり開いたりする。それでもまだ、体が思うように動かない。
「おまえは一週間も眠っていたんだ」
「え⁉ そんなに⁉」
珠子の反応を待たず、ヴェスルが低い声で続ける。
「なにがあった」
「え?」
「――あの魔法は、何度も使えるもんじゃない」
ヴェスルが言葉を継ぐ。その目は、教師というより研究者のそれだった。
「でも、なぜかまた発動した。枕元にあった魔法香の影響だけじゃない。おまえ自身の魔力量が、過去に比べて増えていたからだと――」
「ちょ、ちょっと待ってください。あの魔法って」
返還術のことではないのか。
そう言いかけた珠子の言葉を遮るように、アンリは静かに、しかしはっきりと告げた。
「あなたが、理想の夢の中で生きるための魔法です」
その一言が、室内の空気をさらに重くした。
過去と現在が点のまま浮かび上がる。珠子は、この場にいる自分以外には、線として繋がって見えているのだろうと働かない頭で瞬時に判断した。
眠れる犬は起こすべきではなかったかもしれない。しかし、珠子はもう完全に目を覚ましてしまった。




