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第34話 八番ボールの行き先は

 珠子が目覚めたとき、天井がやけに白かった。昨夜の記憶がいくつも折り重なっているのに、思考がうまくほどけてくれない。

 ミルディナージュの匂いがした気がして、珠子はゆっくりと身じろぎした。香りに引きずられるように視線を動かすと、隣のソファで長い脚を組んだ男が静かに本を閉じるところだった。

 まさか、またディロンに連れ去られたのか――そんな最悪の想像が脳裏をよぎったが、次の瞬間にその可能性は霧散した。

 窓際のテーブル。そこでは一人の男が、自室で過ごす朝のような優雅さで茶を飲んでいた。


「起きたか」


 低く落ち着いた声だ。

 珠子は文字通り飛び起きて慌てて身なりを確認する。これは所謂朝チュンというやつでは、と嫌な汗が背中を伝ったが、服はしっかり着ている。肌に触れるシーツも乱れた様子はない。


「え、なんでベイジル先輩?」


 言葉が口をついて出てから、ようやく状況を整理し始める。昨夜、レダのエスコートで車に乗った記憶はある。だが、その車内にベイジルはいなかったはずだ。狭い車内でこの美貌があって気づかないわけがない。

 混乱する珠子をよそに、彼の態度は相変わらず淡々としていた。


「シャワーを浴びるなら、その間に朝食を頼んでおく」

「え? あ、じゃあ、お願いします」


 断る理由も思いつかず、珠子は反射的に頷いてしまう。

 ベイジルの堂々とした振る舞いはいつも通りで、珠子は観念して洗面室へ向かった。鏡を覗き込み、思わず瞬きをする。いつの間にか化粧は落とされていて、髪の毛のべたつきもない。そういえば着ているものはドレスではなく、シルクの寝衣だ。それに、肌の調子も妙にいい。恐らくは高級ホテルの空気と寝具の恩恵だろう。それ以外の諸々は魔法でどうにかしてくれたのだと思いたい。


(なにもなかったのに、なんで事後っぽい空気を出せるのか……顔がいいから?)


 気持ちを切り替え、無心でシャワーを浴びる。

 いつの間にか脱いだ寝衣は回収されていて、その代わりに()()の服が置いてあって悲鳴を上げそうになった。珠子が普段着ているものよりも少しだけ優雅で、このホテルの宿泊者が着ていれば無難に見えるような、そんな絶妙に上品な服だ。


 戻ると、テーブルには湯気の立つ朝食が並んでいた。ホテルの部屋が広いせいで、ルームサービスのはずなのに朝食会場のようにしか見えない。


「豪華すぎません?」

「そうか?」

「先輩って朝からよく食べる方なんですか?」

「まあ、それなりに」


 ベイジルはきょとんとした顔でパンをちぎった。いくら高級ホテルとはいえ、この量が二人分とは思えない。

 珠子も用意された席に腰を下ろすと、なにかよく分からないフルーツを手で摘まんだ。ここではちくちくとマナーを指摘されることもない。


「タマコはあまり食べないのか?」

「まあ、一人前あれば十分ですね」


 珠子がフルーツを齧った瞬間、「起きたのか」と別の声がして瞬時に振り向く。そこにいたのは昨日とは違うスーツを着たレダで、何食わぬ顔で椅子を引いていた。


「え? レダ先輩、どこにいたんですか?」

「この部屋には浴室がみっつもあってな」

「みっつ⁉」


 長い指がティーカップの縁をなぞり、なぜか機嫌が良さそうに目尻を緩めている。


「昨日のドレスもいいが、それも趣味がいい」

「自分じゃ選ばない服なので新鮮ですね」

「ベイジルの見立てか?」

「え」

「そうだ」

「え、もしかして下着も?」

「そうだが?」

「そうだが⁉」


 この世界の男たちは目視だけで服のサイズが分かる能力でもあるのだろうか。言いたいことは多いが、ここで代金の話をするほど珠子は無粋ではない。


「先輩たちって、接点あったんですか?」

「まあ、同級生だしな」

「同級生だからってつるむようなヒトでしたっけ」

「はは。随分な言われようだな」


 本当に二人の関係性を知りたいわけではなく、ただの雑談だった。二人も珠子の事情を詳しく聞いてこないし、おあいこだろう。


 食事を終え、チェックアウトのためにエレベーターへ向かう。朝の光が差し込む廊下は人の気配がほとんどなかった。

 結局、三人はタイミングをずらしてホテルを出た。珠子とレダはともかく、ベイジルは芸能人だ。以前このホテルに逃げ込んだのも記者から逃れるためだったことは記憶に新しい。誰も「またね」とは言わず、「じゃあ」と言って別れた。


 昨夜から今朝にかけての顛末は山も落ちもない。それだけの話だった。






 珠子の日常は今までの慌ただしさが嘘のように元に戻った。平穏と言えば聞こえがいいが、女王様業はそれなりに忙しい。


 忘れかけていたが、今の珠子は「タマコ」と呼ばれるよりも「ドミナ・レヴェルサ」として人と会う機会が圧倒的に多い。ただ客たちは軽々しくその名前を呼ばないし、女王様という存在はそういうものだと解釈している。


 客は金を対価にサービスを求めてくるものの、全員の嗜好が色々な方向に屈折しているので――だいぶ言葉を選んではいるが――いくらオプション内とはいえ苦労の連続だ。

 一応法律に則った経営をしているので、女王(こちら)側にも客からの要求を拒否する権利がある。とはいえ、それすらもプレイの一環と言われてしまえばそれまでで、女王様に蔑まれたいという願望からわざと過激な要求をする客もいるくらいだ。行き過ぎた言動があれば出禁になる可能性もあるのに、それすらもスリルとして楽しんでいるのではないかと珠子は虫けらを見るような目で男を睨みつけている。それでも余程の()()()がない限りはセーフにしてやっているので、ありがたく思ってほしいものだ。

 とはいえ如何せん客たちは金払いがいいので、ちょっとでも珠子が機嫌を損ねると見限られないように金を積むのだ。よくできた下僕たちである。


 今日の客は、いつの日かルクス・エクリプスを珠子に譲ってくれた忠誠心の高い下僕だった。

 当時はありがた迷惑な献上品の扱いに困っていたけれど、いつぞやリズワンとの取引に一役買ってくれたので珠子は機嫌がいい。男は当然のように金払いもよかった。

 収集家を名乗るだけあって顔が広くて伝手が多いらしい。知識も豊富なのだろうが、生憎この店で発揮されることはほとんどない。だって、ここは――誰もが忘れかけているが――SMクラブなのだから。


 収集家の男はプレイではなく会話だけして帰ることもある。当然そういった趣旨の店ではないのでお断りしてもいいのだが、ただ喋るだけで金がもらえるので珠子は拒否していない。

 衣装は着ているものの声にまで女王様を滲ませる必要はなく、ただ茶飲み友達がするような雑談を繰り広げている。誰も見ていない空間とはいえ、なんとも珍妙な光景に見えるはずだ。


 今回男に貢がれたのは安眠できるお香だという。雑貨屋で手に入るような量産品ではなく、数百年前に存在していた魔女が調合した品らしい。

 この世界には珠子の常識では理解できないような貴重品が数多く存在していて、酒や茶葉といった嗜好品にも高値がつく。

 魔法によって長期保存が可能になったそれらには消費期限がないに等しいが、数百年前ものともなれば価値はうなぎ上りだ。


 亡国の王室御用達。

 著名な画家が晩年好んだ味。

 ベイジル・ロバーツの愛用品。


 キャッチフレーズが多ければ多いほど付加価値がつく。

 収集家であれば使用せずに投資目的で所持することも少なくないが、珠子はもらったものは余程のことがない限り使う主義だ。もちろん貴重なものをもらってもサービスに反映させることもないし、特別扱いもしないと断りを入れてから受け取っている。


 男の説明を要約すると、どこぞの王族がとんでもなくいい夢を見られるようにすごい人に調合させたお香らしい。値段は聞かないでおいた。


 使い方は難しくない。専用の台座に置き、これまた専用のマッチで火をつける。マッチを使ったのは子どもの頃以来だ。


「いい匂いだけど、寝るときの匂いにしては――」


 スパイシーだと言いかけて、急に深い眠気が落ちてくる。その感覚はいつもの睡眠とは違ってひどく重く、引きずり込まれるような感覚に陥った。珠子はかろうじてベッドに倒れ込み、どうにか布団をかぶる。

 脳と身体の働きがちぐはぐで、これ以上なにかを考えるのは不可能だった。


(これ、だめなやつだ――)


 心の中でそう呟いたのを最後に、意識は黒い深みに沈み込んだ。夜が静かに満ちていく。珠子の寝息だけが、暗闇に微かに溶けていった。






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