第31話 箱庭で愛は育めない
日々は淡々と過ぎていった。それでもまだ五日も経っていない。
さて、学生時代の珠子は座学が得意だったわけではないが、なぜか妨害魔法の成績だけはよかった。今になって思い返せば、周囲の学生に舐められないように努めた結果だったのかもしれない。
なんの因果か、ここにきてようやく役に立つときが巡ってきたのだ。
部屋に施された複雑な魔法陣を毎晩こっそり読み解き、一部を書き替える。複製した魔法陣を重ねておくことでディロンや使用人の目を欺くことにも成功した。
そして、魔法陣全体を徐々に無効化へ導くという地味な作業を一週間も続けたのだ。
逃げる準備は整いつつあった。でも、すぐに脱出する気にはなれない。
この感情は簡単に名前をつけていいものではない。曖昧な感情を紐解こうともせずに「こうだ」と分類しようとするのは現代人の悪い癖だ。
情けというほど思いやりはなく、歪でもなく、かといって恋であるはずもない。
ディロンが外でなにをしているのかは知らない。ただ、朝は早く、帰りは遅い。珠子が先に眠りにつくことはしょっちゅうで、休日だと思っていた日ですら呼び出されることがある。
兄弟は多いはずなのに――関係が良好かどうかはさておき――家業のほとんどを取り仕切っているのは実質ディロンなのかもしれない。
そんな目まぐるしい忙しさの中でも珠子への贈り物は欠かさなかった。本当に婚約者にでもなったかのような距離で接してくるし、使用人たちもこのまま結婚するのだと信じ切っているらしい。最近では「ご結婚が待ち遠しいですね」とまで言われるようになった。
学生時代に虫けらを見るような目で珠子を睨んでいた男と同一人物だとはとても思えない。
ミルディナージュは何杯飲んだか分からない。
値が張ると分かっているものを水のように飲む日々だ。自宅に戻ったとき、いつもの安い茶の味に満足できなくなる未来だけが、唯一恐ろしかった。
――ディロンがいない日に去ろう。
そう決めていたはずなのに、ある夜、その計画は思わぬ形で崩されることになる。
誘拐からきっかり三週間を迎える前日の夜、ディロンの帰宅はいつもよりさらに遅かった。
珠子は部屋の扉が静かに開く音で目を覚まし、寝たふりをするべきか迷った。いくら不本意な居候生活とはいえ、仕事を終えた相手は労わるのが筋である。
普段であればディロンはそのままベッドに潜り込んでくるはずなのに、今日に限っては照明の光がベッドサイドを淡く照らした。そして、連動するように部屋全体に光が広がっていく。
「……起きてるんだろ」
低く抑えた声が、いつになく柔らかい。
珠子は布団から身を起こし、眩しさに目を細めながらちらりと時計を見る。珠子の口からは「たった今起こされた」と装う必要もないくらいかすれた声が出た。
「遅かったですね」
「ちょっと準備があってな」
準備――その言葉に引っかかる暇もなく、ディロンは突然部屋の灯りをすべて落とした。代わりに複数の光の玉がふわりと浮かび、青白い灯りが花びらのように舞いながら室内を漂う。
珠子は思わず息を呑んだ。なにが始まるのかは分からないが、彼はこんなロマンティックな演出をする男ではなかったはずだ。
「……座れ」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、ディロンは不器用なほど丁寧に、小さな箱を差し出した。
「これを、受け取ってくれ」
箱の中から姿を現したのは、見たこともないほど大きな宝石のついた指輪だった。それもただの宝石ではなく、高純度の魔力そのものを練って固めた代物だ。
魔法石と呼ばれるそれは珠子が首にさげている防犯ブザー型の魔法具にも使われているが、大きさが違いすぎる。値段は核となる石のサイズに依存するため、ディロンが出してきたそれは顔色が変わるほどの値段であることが一瞬で分かる。
用途は多岐にわたるが、これはどう考えても――
「ディロン先輩、これ」
「分かってる。おまえには似合わないかもしれない」
「ちょっと、どういう意味ですか?」
「オレは、おまえを妻にしたい。ずっと、そばにいてくれないか」
普段の挑発的な態度が嘘のように、彼は視線を逸らしながら告げる。
「オレは、おまえのことを道具として扱うつもりはない。ハーレムも必要ない。披露目が終われば外出もさせてやれるし、不自由ない暮らしを約束する」
ディロンが言葉を並べるたび、ほんの少しだけ声が揺れるのを感じた。彼が誰かに弱さを見せる姿など、想像したこともなかったかもしれない。
「だから、指輪を受け取ってくれないか」
静かすぎるほどの静寂が部屋を包み込む。
珠子はそっと、箱を閉じた。そのまま引っ掴んで持ち逃げしてやろうかと思ったが、迷惑料にしてはもらいすぎだ。
「これって、プロポーズってことですか?」
「そうだ」
「だったら、まずは言うことがあるんじゃないんですか?」
「……なにを」
ディロンは勿体ぶっているわけではなさそうだ。
珠子は自分が「普通の枠の中」にいると決めつけているわけではないが、彼の生い立ちや生活環境、お国柄、どれをとっても自分の知る庶民的感覚や価値観とはどうも嚙み合わない。
「好きとか、愛してるとか。そもそも付き合ってすらないですよ、わたしたち」
「好ましいと思っていなければ、そもそも結婚を望まない」
「そこ! そこなんですよ。百歩譲って、その好ましいという感情が恋だとしてですよ? 恋は一方通行でもいいですけど、結婚ってそうじゃないんです」
「……なにが言いたい」
「簡単に言えば、価値観の違いってやつかもしれないですね」
シシュティタリアは一夫多妻制だが、珠子はそれを悪だとは思っていない。国には国の制度があり、ルールがあり、常識があり、人々は義務と権利のバランスを保ちながら生きている。
意見の違いがあるのは当然で、自分の常識を押し付けるのは失礼だ。でも、だからこそ珠子はディロン相手に怯むわけにはいかない。
「恋愛がいちばんってわけじゃないですけど、わたしは情で結婚はできないタイプなので。すみませんが、ほかを当たってください」
珠子は寝衣の上にコートを羽織りながら言った。元々荷物は少ない。
「あきらめないと言ったら?」
「どうするかは先輩の自由ですが、わたしの意思は変わりません」
「……もう、会えないか?」
「元の生活に戻るだけですよ」
威圧感も強がりもどこへやら。しおらしい声が演技なのかは分からないが、今日はディロンの珍しい姿をたくさん見ている。珠子は、小さく息を吐いた。
「先輩はいつも強引なので、正規ルートでなら会いますよ」
それだけでは味気ない気がして、声にほんの少しの意地悪を乗せて言った。「そういえば、自分から職業を明かすのは初めてだな」と呑気に考えながら。
「わたし、女王様やってるんですよ」
「は?」
「ディロン先輩がわたしの上客になってくれるなら、いつでもどうぞ」
完全に固まるディロン。その顔を正面から見るのは居たたまれなくなって、珠子は視線をそらした。
――潮時だ。
珠子が魔力を注ぐと、防犯魔法だったものは足元からまばゆい光を放って霧散した。無効化というよりは、最初からなにもなかったかのように。
ほぼ同時に別の魔法陣を発動させたが、ディロンはそれを止めなかった。
「……またな」
「お元気で」
ディロンがなにを思って再会を願ったのかは分からないが、珠子は無難に手を振った。
彼がプライドを捨ててSMクラブへ来店する可能性については、今は考えたくもない。




