第3話 類は誰を呼ぶ
デリク・ダヴェンポート襲来から一週間が経った。
今日までの日々が穏やかな日常だったかと聞かれたら「そうだ」としか言いようがないが、相変わらず女王様業は忙しい。
奴隷の嗜好に合わせてする接客は、それなりに疲れるものだ。生命の危機に直面するような行為はしない決まりだが、いかんせんここはそういうことを楽しむ店なわけで。
男たちは単純に自分の欲を満たすためだったり、ストレスの発散だったり、日常の有象無象から逃れるために来店する。
非日常を味わうために、わざわざ金を払って合法的に全裸になるわけだ。
(お腹、空いたな)
今日も迷える子豚が一人、恍惚とした表情で店を後にした。
いい仕事をしたあとは単純に腹が減る。女王様は意外と体力勝負なのだ。
客との会話はコミュニケーションを取るために必須ではあるが、サービスやカウンセリングの意味合いが強い。
悲しいかな、最近は接客で鍛えた話術を無意識にプライベートでも使ってしまう癖が出てきた。
相手が望むであろう言葉を無意識に選ぶことが多くなり――どうしても貫き通したい主張があるわけではないのだが――無駄話を楽しむ機会はめっきり減った。
とりとめのない会話をしたくなったとき、珠子はある人物を頼る。
連絡するのは決まって当日で、誘う時間は不規則だ。断られてもおかしくないと毎回思っているのに、断られたことは一度もない。
女王の名残はシャワーで流した。派手な化粧はせずナチュラルに仕上げ、口紅だけはしっかりと。最後に香水をワンプッシュ。
初夏を匂わせる爽やかな風が、珠子の艶やかな黒髪を躍らせた。
急な約束にもかかわらず、いつも過不足ない店の席が用意されている。洒落ていて、騒がしくなくて、ドレスコードがない。店員も客も他人に興味がなくて、詮索をされることもない。そんな、珠子にとって都合がいいような店ばかりが――ニーデラーナ学園の上級生、レダ・ドパルデューの手によって。
「もう俺のことなんて忘れたのかと思ったよ」
「あらやだ。それ、会うオンナ全員に言ってるんでしょ?」
「タマコにだけだよ」
「やだやだ。レダ先輩ってばいつもそう」
身振り手振りのくだらない寸劇だ。レダは昔からの調子を崩さず、珠子もそれに便乗してけらけらと笑う。
「いつも突然すみません」
「もう慣れたよ」
内緒話をするよりも少しだけ声を張る。互いの声を聞き逃さないためにおのずと二人の距離は近くなった。体を傾けたレダの膝が珠子のそれに触れても、二人はなにも気にしない。
「まあ、たとえ忙しかったとしても、タマコに会うためならいくらでも都合をつけるさ」
溶けた氷がカラリと響く。
耳慣れない台詞も、色男が言えば様になっていた。はじめて聞いたときは自分が映画のワンシーンを彩っているかのような心地になったものだが、今では新鮮味のない光景でしかない。
「レダ先輩って、悪い男って言われません?」
「誰に」
「主に先輩のことが好きだった女の子に」
「俺のことが好きな女性、ではなく?」
「現在進行形だったら悪い男だって気づいてないだけでしょ」
レダがホストのような身なりをしていれば発言にも説得力があるが、彼の印象は好青年そのものだ。派手なスーツや髪形を好まず、凡庸なセミオーダースーツに撫でつけただけの髪の毛。例えるならば、「国家公務員に一人はいるよね」と評価されるような外見かもしれない。
「ひどいな」
「そんな風に思ってないくせに」
「思ってるさ。これから君に告白されるのかと浮ついた俺の純情を返してくれ」
爽やかな笑顔が夜の街に浮いていた。
珠子が知る中でもっとも純情という言葉が似合わない男がなにも分かっていない風の顔でグラスを傾けている。
急にこのやり取りが不毛なものに思えて、珠子は単刀直入に切り出した。
「デリク先輩がわたしの勤め先に来たんです」
「……ふうん?」
レダの心を射止めたい女たちは、この温厚な笑顔に騙される。
彼の風貌は一目惚れされるようなものではないかもしれないが、特有の雰囲気にのめり込む女は少なくない。でも、その腹の中にはただの人間とは思えないような厄介なモノを秘めている超危険人物なのだと、声を大にして言ってやりたかった。
「わたし、卒業してから連絡を取っているのってレダ先輩だけなんです」
「それは光栄だな」
「間髪入れずに言うのって嘘っぽいですよ」
「タマコ。いつからそんなひねくれてしまったんだ」
「元からです。だから――」
珠子がレダと再会したときに話したのは「とあるバーで働いている」ということだけで、当然だが女王様業については内緒にしている。
「もしデリク先輩に会っても、わたしのことは話さないでくださいね」
「卒業してから彼に会ったことはないが」
「分かりませんよ。あの人のことだから方々嗅ぎ回っているに違いないです」
「そんな犬みたいに」
確かにレダとデリクは学年が違うのでほとんど接点がないはずだ。しかし、デリクの顔の広さは学園中に及んでいたので、珠子の交遊関係などすっかりお見通しに違いない。
「犬みたいなもんですよ。不自然なタイミングで『偶然ですね』とか言って現れますよ。尤もらしい取引材料をお土産にして」
「あのデリクがタマコをねぇ」
「『知ってたらどうする?』って鎌をかけちゃだめですよ。あの人、そういうカンだけはいいから」
「取引材料とやらが、俺にとってメリットのあるものだったら?」
レダがほんの少し前のめりになるだけで、珠子の体は彼の影にすっぽりと覆われてしまう。爽やかな香水は癖がなく、珠子好みの匂いだ。
「デリクがタマコの居場所を知って、ほかのヤツに共有されていない事実の方に驚いている。口止めしたのか?」
「そりゃそうですよ」
「どうやって」
「企業秘密です」
「情報は利益に直結する。普段から怪しい橋を渡ってる奴が、ただ黙っているだけとは思えないが」
「それがただ黙っているだけの可能性もあります」
「……まったく。謎が多い女だな、タマコは」
「レダ先輩の理解が早くて助かります」
レダはそれ以上なにも言わず、酒を半分まで飲んだ。
ナッツをつまみ、珠子の口の中に放り込む。黙って咀嚼すると、頬杖をつきながらにやりと笑うだけでなにも言わない。
珠子の扱いは野良猫へのそれと同じだが、自分の行いで猫よりも優れた点がひとつも思い当たらなかった。
デリクとの再会は――不本意ながら――偶然だが、レダは違う。
二度目の異世界召喚のあと、珠子が自分から連絡したのだ。なにかと頼ることが多かった彼の電話番号はなぜか鮮明に思い出すことができて、気まぐれ半分で電話をかけた。あとの半分は寂しさだったのかもしれない。今となっては不確かな記憶だ。
『レダ・ドパルデューさんの電話番号で間違いないでしょうか』
五回目の呼び出し音のあと、想像よりも冷ややかな声が「はい」と返事をしてくれる。周囲はわずかにざわついているようだったが、どこにいるのかまでは判断できなかった。
電話のマナーとしては最悪だが、珠子は名乗りもしないし、そもそもなにを言うか考えていなかったのだ。でも、レダは「タマコか?」と呟いた。
『よく分かりましたね』
『静かな場所に行くから、このまま少し待て』
珠子が待った時間は十秒にも満たない。
咳払いのあと、「タマコで、本当に間違いないか」と乾いた声が耳に届いた。それにただ「はい」と返事をすると、レダは分かりやすくため息をついた。
『どうした』
『レダ先輩に会いたくなっちゃって』
『今までどこに……いいや、それはいい。いつ会う』
『今日、今からって会えますか』
『タマコの誘いなら、いつでも大歓迎だ』
『じゃあ――』
時間と場所を決めて電話を切る直前、遠くから「レダ」と呼ぶ声に聞き覚えがあったが、それには触れずに通話終了のボタンを押した。
あの日から今日まで、レダが珠子の誘いを断ったことは一度もない。断ったが最後、二度と連絡が取れなくなると思っているのかもしれないが、聞いたことはなかった。
レダに伝えているのはバーテンダーとして働いていること。レダ以外とは会っていないこと。しかし、デリクが嗅ぎつけてしまったということだけ。
レダは珠子になにも聞かない。今現在住んでいる場所も、今までなにをしていたのかも。なぜ、突然姿を消し、連絡を絶ったのか。さりげなく遠回しに聞くようなことも、珠子が勤めている店で飲みたいとも言わない。
珠子に黙って昔馴染みを同席させることもしない。
デリクとは違い、レダとはひとつも約束を交わしていなかった。しかし、最初に連絡を取る相手に彼を選んだのは正解だったと確信している。口が堅く、察しのいい彼は自分の行動次第で今の関係性が崩壊することを正しく理解しているからだ。
レダも十分食えない男だが、たとえ騙されていたとしても珠子は別に構わなかった。彼だって珠子のすべてを信用しているわけではないだろうからお相子である。
デリクもレダも情報を独占して有頂天になるような男ではない。
異世界人という以外に特徴のない人間の女に固執する理由があるはずもなく、欲しいものを自力で手に入れられるからこその気まぐれだと珠子は思っている。
「香水、変えたのか?」
「そうなんです。獣人対策ですかね」
「へえ?」
「匂い消しらしいですよ」
珠子の匂いだけでなく、一緒に過ごした人物さえも特定できなくするという代物だ。
デリクが「なにかと便利ですので」と教えてくれたものだが、まさかレダと会った痕跡を消すために使っているとは思わないだろう。
「悪くない匂いだ」
レダは本当に不思議な男だ。デリクが珠子の居場所を突き止めた経緯も、今後も会う約束をしているのかどうかも、珠子の勤め先の場所も、聞き出すような言葉が飛び出すことはない。「うっかり」ということをしない男なのだ。
レダとの再会を果たした日、約束の場所へ駆けつけた彼の表情は今でも忘れられない。まるで幽霊でも見たような、怯えとは違う感情を滲ませた顔をしていた。彼の行動がただの親切心なのか意味のある監視なのかは分からないままだ。
男女の駆け引きのような色気はないが、たまに向けられるレダからの鋭い視線は気のせいではない。きっと、彼はタイミングを見計らっている。その様子はまるで――
「狩りみたいだな」
「なにか言ったか?」
「いえ、なんでも」
レダと珠子は恋人ではないし、二人の間には恋愛感情もない。同窓生であるだけの二人は互いの交友関係に口を出すような関係性でもなかった。
「俺も選んでいいか?」
「え?」
「香水。その匂いもいいけど、もっとおまえに似合う香りを知ってるんだ」
レダの表情が見えない。これが口説くための台詞ではないと珠子は分かり切っているけれど、勘違いしたであろう見知らぬ女を想像して勝手に憐れんだ。
「ありがたいですけど、当面は匂い消しの香水をつけますよ。レダ先輩に会うときは」
「どうしても?」
「じゃあ、レダ先輩に会えないときにつけます。そうしたら、いつでも先輩のことを思い出せますね」
名案だと笑ってみせれば、レダは大きな手で顔を覆った。直後に大きなため息を吐くと、「どこで覚えてくるんだ」と言いながら前髪をくしゃりとかき混ぜて、珠子の顔を覗き込む。
「……悪い女だな」
「気づいちゃいました?」
「ああ」
「過去のわたしは可愛げがありましたけどね」
先ほどの会話の意趣返しをされたのかもしれない。レダは今日いちばんの意地悪な顔で、珠子の髪先をすくった。
「え」
「悪い女だし、いい女だよ。今も昔もな」
そう言って、レダはグラスに残った酒をあおった。
「……レダ先輩って、今年で何歳でしたっけ」
「おいおい。俺はタマコと二歳しか違わないんだぞ」
「そういえば、そうでしたね」
「まさか卒業して十年も連絡が取れなくなるとは思っていなかったけどな」
おまえはなにも変わらないな、と目を細めたレダに、「わたしの故郷は童顔が多いんです」と笑って返す。嘘は言っていない。事実を隠しているだけで。
十年も連絡が取れなかったのは当然だ。珠子は元の世界へ戻っていたのだから。