第29話 度胸のある蛙
視界が仄暗くぼやけ、足元の感覚が消えた。脳が追いつくより先に、体だけがどこかへ引きずられていく。瞬きをした次の瞬間、珠子は明るい広間に立っていた。光沢のある大理石の床。高い天井。壁一面に掛けられた織物がかすかに揺れている。見覚えのある空間。そして、見覚えのある男。
目の前には、落ち着いた微笑みを浮かべるディロンがいた。整えられた身なりは以前と変わらず、しかし、その瞳には前よりも強い意思が宿っているように見える。
ご機嫌なのは彼だけではない。侍女たちは穏やかな笑みを浮かべ、護衛の男たちは妙に誇らしげだ。空気そのものが、彼の機嫌ひとつで支配されていた。
「久しいな、タマコ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。誘拐したのはディロンだというのに、彼の口調が偶然の再会を喜んでいるようで笑ってしまいそうになる。
珠子をここまで連れてきた男はすぐに姿勢を正し、恭しく礼をしてから下がった。ドアの外で足音が遠ざかり、静寂だけが残る。
「移転魔法は魔力の痕跡が残るからやめたって言ってませんでしたっけ?」
「よく覚えてるな」
「なりふり構わず、って感じですか?」
「おまえはガードが堅いからな」
「まさか。この通りゆるゆるですよ」
軽口を交わしながらも、珠子は周囲をさりげなく観察する。窓は厚いカーテンで覆われ、扉の前には護衛が二人。当たり前だが、逃げ道はなかった。
ディロンの合図で侍女が音もなく椅子を引く。エスコートされるままに腰を下ろすと、自然と呼吸が整った。この状況にも慣れつつある自分が少しだけ情けない。
「違法出国ですよ、これ」
「手続きはしておく」
「なんのですか。横暴な権力者だなぁ。職場にも連絡しておいてくださいよ」
「寿退社します、ってか?」
「バカですね。誘拐しましたって堂々と話したらどうですか?」
「駆け落ちした女を気にするヤツはいないだろうよ」
――駆け落ち。
珠子は目を細めた。ディロンはこれが恋愛の延長だとでも言いたいのだろうか。支配階級の亜人である彼らにとって女を囲うことは罪ではなく、富と力を誇示するための証だ。彼の論理の中では、珠子もそのコレクションの一部に過ぎない。
前回の誘拐時に活躍した防犯ブザー――ネックレス型の使い捨て――は、すぐに取り上げられてしまった。しかも、この家にかけられた防犯魔法の性能も上がっているという。本当に抜け目がない。
「さすがに対策が早いですね」
「ニーデラーナの有名人には及ばないかもしれないが、うちにもすごい魔法使いがいるんでね」
「はは、意外と根に持つタイプですね」
ディロンは返事をしなかった。その沈黙は怒りでも呆れでもなく、ただ興味の対象を観察しているだけの静けさなのかもしれない。
彼の気分を害したらどうなるか、珠子は知っている。ここでは彼が絶対的な支配者であり、法ですら通用しない。試すような真似は、今の珠子にはできなかった。
「ここで暮らせ。ずっと」
「……ま、しばらく厄介になります」
ほんの少しの間を置いて、珠子は無難に答えた。表情は崩さないように細心の注意を払い、声の温度も一定に保つ。ディロンの目をまっすぐ見つめ返すのは、勇気ではなく明確な計算によるものだった。
女王様として培った度胸が今ほど役に立つ瞬間もない。怯えを隠すのではなく、あえて平然としている女を演じる。この部屋を支配するのは彼であっても、空気を支配するのは自分でなくてはならなかったから。
「わたしのしぶとさは、コックローチ並みですからね」
小さく呟き、出されたお茶に口をつける。毒だなんだと疑っていてはきりがない。ディロンにとって珠子は生きているからこそ価値があるのだから。害するよりそばに置く方が得策だと、彼なら分かっているはずだ。
カップから華やかな香りが立ち上る。ミルディナージュによく似た匂いなのに、色も味もまったく異なるこのお茶はなんという名前なのだろう。
もう一度口に含むと、素朴で落ち着いた味が珠子の心をわずかに癒した。




