第28話 三日月が見ている
今さらな話だが、レダとベイジルが卒業後も連絡を取り合うような関係だったとは意外だった。
バーにいたベイジルが「ドパルデューの紹介か?」と言っていたということは、少なくとも彼はレダにその店を勧められたということなのだろう。
確かにレダの交友関係は広かったと記憶しているが、それは彼の愛想のよさ故だ。人脈を広げようとあちらこちらで顔を売っていたリズワンはともかく、自分から誰かに声をかけるような人柄でもない。
珠子とは学年が違うし、そもそも各人の個性が強すぎて集団生活に不向きな人々の集まりだったので、いちいち気にしたこともなかった。珠子の知らない十年の間に色々あったのかもしれないし、深く知ろうと思うこともない。彼らはもう大人になっているのだから。
豪奢なホテルに宿泊した数日後、珠子はいつものバーにいた。
窓際の席にはレダが腰かけていて、ようやく日常が戻ったような、そんな光景に安堵する。グラスに映る街灯の揺らめきが、珠子の心を少しだけ落ち着かせた。
カウンターの向こうでバーテンダーがシェイカーを振る音が心地よいリズムを刻んでいる。
隣に座るレダがグラスを傾けながら微笑んだ。そして、唐突に言われたのは珠子の安寧を吹っ飛ばすような言葉だった。
「ベイジルに会ったのか?」
グラスの酒はもう残り少ない。この時点でレダが次を注文しないということは、この会話に不都合が生じたら適当なところで打ち切ってお開きにしようという魂胆なのかもしれない。酒の肴にするにしては、いささか衝撃が強すぎる。
珠子は氷を軽くかき回し、視線をレダに向けた。爽やかな笑みはいつも通りで、彼がなにを考えているのかちっとも分からない。
「……あの店の情報って、先輩には筒抜けなんですか?」
「まさか。あの店はそういうんじゃない」
だったらなんなのだと咄嗟に言葉が出なかった。人の口に戸は立てられないことは重々承知だが、店にいなかったはずのレダがなぜ知っているのだろうか。
ベイジルとの再会を誰かに話した覚えはない。さすがにヴェスルには朝帰りの理由を伝える必要があったので、些細なトラブルに巻き込まれてお詫びに宿代を出してもらっただけだとぼかして伝えた。彼はベイジルを知っているので、「なるほど」と返されただけで済んだのだが。
レダの瞳はグラスの底を覗き込むように静かで、珠子は無意識に背筋を伸ばした。
「盗聴器でも仕掛けてます?」
「まさか」
「じゃあ、先輩に言いなりの忠犬を店で飼っているんですね?」
レダはグラスを転がしながら「あの店の犬は躾が行き届いているからな」と肯定とも否定とも取れない曖昧なことを言った。笑みを浮かべているのに、目が笑っていない。いつもの軽口が、今日は少しだけ棘を帯びている気がした。
「なんでそんな勘繰りたくなるような言い回しをするんですか?」
「はは。そんなつもりはないんだが……仕事柄、かな」
「詐欺師ですか?」
「まさか」
カランと氷が鳴った。バーの喧騒が遠く感じるのは耳鳴りのせいか、それともこの会話の重みか。レダの指がグラスを軽く叩く音が、妙に響く。
珠子はカウンターに肘をつき、口を開こうとして、結局やめた。レダの知らない部分が増えただけで実害はなかったから。
「そういえば、わたし、先輩が普段なにをしているのか知りませんね」
「俺もおまえの仕事を知らないな」
「実はもう知ってて、言わないだけでは?」
「俺はそんなに信用がないのか?」
「それは自分がいちばんご存じなのでは?」
レダは「意地悪だな」と笑って残りの酒を飲み干した。
軽口の応酬なのに、どこか緊張の糸が交差していたことを珠子は気づいている。でも、二人の会話はそれ以上発展しなかった。そうすべきだとお互いが分かっていたから。
レダの視線が窓の外の闇に落ちる。そこにはなにもないはずなのに、探るような目でじっと見つめ続けていた。たった数秒のことだったけれど。
珠子はグラスを回す手を止め、心の中で小さくため息をつく。知りたくない真実がそう遠くない場所に潜んでいるという事実が、酒の苦味のように喉に残った。
会話の余韻に浸りながら二人は席を立った。
毎度レダに支払ってもらうのは気が引けるので、珠子はなにかと理由をつけて金を押し付けている。
レダはオーナーに用があるというので、珠子は先に外へ出た。夜風が頬を撫で、街のざわめきが耳に優しく戻ってくる。ようやく、息ができたような気がした。
三日月の光が路地の石畳を淡く照らしている。珠子はコートの襟を立て、ゆっくりと歩き出した。バーの扉が閉まる音が、背後で静かに響いた――その瞬間。
背後から鋭い力で抱き抱えられ、視界が暗転する。
「っ……⁉」
息を呑む。街のざわめきも、一瞬止まったかのように感じられた。
振り向く間もなく、長身の男が珠子を抱えたまま移転陣を発動させる。ビロードのような質感の渦が瞬く間に二人の体を覆っていった。
男の腕は鉄のように固く、息苦しいほどの力強さで珠子の体を締めつけている。漆黒が視界を埋め尽くして耳鳴りが爆発すると、抵抗する間もなく世界は反転した。
レダが店の外に出てきたのは、珠子が闇に飲み込まれる直前のことだった。
「タマコッ!」
わけもわからない状況の中、レダは珠子が連れ去られたことだけを理解した。立ち尽くすレダの視線には、怒りも、悲しみも、そして驚きも混ざっている。
バーの扉がゆっくりと閉まる音が夜の静けさを引き裂いた。レダの拳が無意識に握りしめられる。指の関節が白くなるほどに。
三日月の光が彼の顔を青白く照らす。いつもの好青年の仮面が、剥がれ落ちるようにひび割れた。
「どういうことだ」
それ以上の言葉は喉の奥で止まった。
レダの瞳にいつもの爽やかさが消え、代わりに冷たい光が宿る。街灯の下で影が長く伸びた。まるで、獲物を追う獣のように。
レダはゆっくりと息を吐き、ポケットから魔力通信機を取り出す。指が震えていないか、確かめるように。
夜の闇が、彼の周りを静かに飲み込んでいった。




