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女王ドミナ・レヴェルサの上客を名乗る者たち  作者: 世良かけり
第4章 見世物小屋のマーチ
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第27話 深夜二時のルームサービス

 夜風が路地の隅を優しく撫でるように吹き抜けた。人気のない通りを抜け、角をみっつほど曲がったところで、ベイジルがぴたりと足を止める。


「ここからは歩かない方がいい」


 そう言うと、彼はなにかを呟いて影の奥から小型の黒い車を呼び寄せた。ほんの一瞬、魔法の気配が空気の糸を引くように走り抜けていく。その滑らかな所作に、珠子は思わず息を呑んだ。派手な魔法ではないのに、それがやけにベイジルに馴染んでいたから。

 ドアが無音で開くが、運転手はいない。すべてベイジルの魔力で制御されているのだと気づき、珠子は小さく首をすくめた。魔法の便利さを、改めて思い知らされる。


「自動運転、ですか?」

「見ての通りだ」


 短いやり取りの後、二人は後部座席に滑り込む。夜の街は車窓の向こうでネオンの粒となり、ゆっくりと後ろに流れていった。

 沈黙が車内に落ちても気まずさはないのに、珠子はわずかに緊張していた。自分の手が、今もベイジルのそれに包まれているからかもしれない。魔法はもう解除したのかと聞けばいいだけなのに、なぜか言葉が出てこなかった。


「先輩、()()()()()慣れてるんですか?」

「なぜ?」

「冷静だなって思って」


 ベイジルは一瞬、視線を珠子に移す。ラジオもない無音の車内では、ほんの少しの身じろぎすらドラマの始まりの合図になってしまうような気がした。


「よくあることなんだろ?」

「え?」

「さっき、おまえがそう言っていた」

「……先輩とは、規模が違うと言いますか」

「同じだ」


 その平然とした言い方があまりに彼らしくて、珠子は思わず吹き出してしまった。ベイジルはちらりと一瞥をくれると、すぐに目を窓に戻す。

 ホテルに着くまでの間、二人の間にあったのはそれだけだった。




 無音のまま、車は高層ホテルの前に滑り着く。煌びやかなエントランスの光が、二人を現実に引き戻した。


「ここって」

「上に契約してる部屋がある」


 ドアマンの恭しい仕草。香りの薄い花束と、控えめなピアノの調べ。フロントのスタッフが姿勢を正すと、ベイジルは薄い笑みを浮かべて近づいた。その仕草ひとつで、彼は役者の顔になる。足取りは舞台の上のそれだった。人前に出ることに慣れた人間特有の、隙のない動き。


「今夜、いつもの部屋を」

「かしこまりました。お連れ様のご署名をいただけますでしょうか」


 スタッフが差し出したカードを前に、珠子はそっとペンを取った。ベイジルの方を見上げると、彼は黙って頷いただけだ。

 「ルシア・ペルラ(光をもたらす真珠)」という名が意味するものはなんだろう。彼が同伴者に与える名なのか、ただの思い付きなのか。なんにせよ、珠子にとっては書きなれない異国の名だった。ペン先が紙を滑る音が妙に心地よく、この夜がさらに現実味を帯びていく。

 ベイジルが生み出した偽名は珠子の本名を飾る額縁のようで、その美しい響きに少しだけ胸がざわついた。


「ありがとうございます。ロバーツ様、ペルラ様、ご案内いたします」

「頼む」


 短い言葉。でも、その一言にホテル全体の空気が柔らかく従うようだった。ベイジルがそういう存在であることを、珠子は改めて思い知らされる。

 二人がエレベーターに乗り込むと、金属の扉が静かに閉じていく。スタッフは同乗せず、深くお辞儀をして見送るだけだった。

 上昇する微かな揺れの中、ベイジルがぽつりと口を開く。


「緊張してるのか?」

「してますよ。こんな立派なホテル、泊まったことないです」

「そうか」


 彼の口元が緩んだ理由は分からなかった。

 これがデリクやリズワンであれば、明らかな揶揄の前兆だったはずだ。レダであれば「俺もだ」と分かりやすい嘘をつく。ディロンであれば、きっとこのホテルを買い取ると言うだろう。

 珠子の知り合いにはろくな男がいない。そういう自分がまともなのかと問われても判断はできないが、ベイジルは唯一の常識人と言っても過言ではなかった。ただ、その美貌だけが規格外なだけで。


 数秒の沈黙のあと、エレベーターの表示が最上階を指した。さすがに誰もいないだろうと思っていたら、フロアスタッフ――コンシェルジュと呼ぶべきか――が、完璧なお辞儀で出迎えてくれた。


「ロバーツ様、ペルラ様、おかえりなさいませ」


 案内された部屋はとんでもなく豪華だった。眺望は文句なし。大きな窓からは夜景の海がどこまでも続いている。街の灯りが、宝石のようにきらめいていた。


「誰だあの女、って思われてないですかね」

「思うわけがない」

「ほんとかなぁ」


 隣の部屋に入ると、まるでレストランの個室のようにテーブルが整えられていた。

 ソースがアートのように彩られたステーキ、断面が美しい野菜のテリーヌ、なぜか湯気が出ているパン。

 珠子は頼んでもいないルームサービスの料理に目を丸くする。銀の蓋を取った瞬間に立ちのぼった香りに、思わず頬が緩んだ。


「用意してもらった」

「え、いつお願いしてたんですか?」

「秘密」


 ベイジルに導かれるまま、珠子は食事の席につく。


「すまないな。巻き込んで」

「とんでもない。逆に、すみません。こんな贅沢させていただいて」


 ワイングラスに映る光が、赤い液面でゆらりと揺れた。彼の「すまない」という言葉には、謝罪よりも警告のような響きがある。

 今夜ここで過ごすのはただの避難であるはずなのに、珠子は記念日を過ごす恋人同士よりも贅沢な時間を過ごしていた。


「このホテルなら誰も入ってこないし、他言はしないだろう」

「五つ星ホテルですもんね」

「このまま泊まっていけ」

「先輩は?」

「オレも泊まるが」

「……同じ部屋に?」


 ナイフを静かに置き、視線を上げた。ベイジルの瞳が静かに珠子を映している。


「さすがに噂されちゃいますよ」

「されてみるか?」

「先輩って、実はいろんな人をここに連れ込んでるんですか?」

「誰かを連れてきたのは、おまえが初めてだが」


 撮影現場でカットがかかる直前のように数秒見つめ合い、次の瞬間にはどちらも視線を逸らした。それだけで、この夜は充分にドラマチックだった。


「先輩のファンに刺されるのは嫌なので、なにもないことを祈ります」


 ベイジル・ロバーツは魔性の男だ。

 珠子はフォークを握りしめ、黙って肉を口に運ぶ。あとはシャワーを浴びて寝るだけだというのに、腹を満たしておかねばならない。そんな気がしたから。




 数日経ってもベイジルの熱愛報道が週刊誌に載ることはなかった。まるで、あの夜そのものが幻だったかのように。






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