第26話 ゴシップ誌デビューにはまだ早い
バーの空気は変わらず落ち着いていた。木の温もりに包まれ、低く流れるジャズが夜を撫でる。穏やかな照明のもと、グラスを傾ける客たちは静かに時を愉しんでいた。
外の世界ではスポットライトを浴びる者も、ここではただの一人にすぎない。誰もがそれを分かっているからこそ、この店は特別なのだ。
「ドパルデューの紹介か?」
ピアノの旋律に溶けるような低い声が、隣からした。珠子は反射的に姿勢を正す。
見慣れていたはずの顔がこんなにも近くにあることに、まだ心が追いつかない。
「……はい。ちょっと静かなとこに行きたいって言ったら、ここを教えてくれて」
「なるほど」
「先輩も?」
「オレも、似たようなものかな」
ベイジルは短く曖昧に答え、グラスに口をつける。
その指先の動きひとつで空気が変わった気がした。仕草に隙はないのにどこか飄々としていて、学生時代と変わらない。それが、妙に懐かしかった。
珠子はふと、昔の学園の中庭を思い出していた。昼休み、木陰で寝転ぶ彼の姿を。周囲がざわめく中、彼だけが風景の一部みたいに静かだった。
今もそうだ。彼の周囲だけ時間の流れが違う。
珠子は異世界から来ただけのただの人間なのに、彼の隣に立つだけで舞台の上や銀幕に引きずり込まれてしまうような、そんな感覚に陥ってしまう。
世間は名の知れたスターの愛飲している酒を知りたがり、隣にいる女を値踏みしてやりたいと思っているだろう。
でも、この空間の中ではそんな下世話な興味も意味をなさない。だから、ベイジルもここにいるのだろう。
珠子は世間の大多数と同じでベイジルの顔が好きだが、意外と不器用で面倒くさがりである彼の人間らしい部分を気に入っている。
「次、なに飲む?」
「え、あ、いや。そろそろお暇しようかと」
彼は美しいというだけで世界を掌握できてしまうし、惑った周囲は勝手に崩壊していく。
珠子はその「崩壊」を幾度も目にしてきた。けれど本人はそれを理解しているのか、いないのか。ときどき、彼の静けさが少しだけ怖くなる。
「まだ一杯しか飲んでないのに?」
「いつからこの店にいるんですか?」
「タマコがここに座る前から」
珠子は鈍感な自分を呪った。見覚えのありすぎる美しい男が店にいたのに、気づかないどころか欠伸までしていたのだから。
「先輩は、おひとりで?」
「そう。ここに面倒なやつはいないから」
「有名人も大変ですね」
「しばらくすれば飽きるだろう」
ベイジルは気まぐれな猫のような顔で珠子を見た。
なにに興味を示しているのか分からない表情。饒舌ではない彼は、必要以上に口を開かない。無言が苦になることはないが、美人の横に座るだけの元気が、今の珠子には少し足りなかった。
「ロバーツ様」
店員の控えめな声が、その静寂を破った。ベイジルは軽く首を傾ける。
「ん?」
「外に、行儀の悪い者がいるようです」
「すまない。どこかの記者かもしれない」
「ベイジル先輩、追っかけられてるんですか?」
「そういうことになる」
淡々と話す彼に、珠子は思わず感心する。これだけの大スターなのに、まるで天気の話のように言うのだ。
「芸能人ですねぇ」
「否定はしない」
その返しが、いかにも彼らしかった。
あの頃もそうだ。褒められても、貶されても、どこか上の空。誰も傷つけない代わりに何者にも関心を寄せない、不思議な距離の取り方だった。
珠子とベイジルは当たり障りのない話をした。天気のこと、近況、共通の知人の噂話。時折、沈黙が落ちる。でも、それは気まずさではなく、互いが互いの時間を尊重しているような、穏やかな静けさだった。
ベイジルは珠子の近況を聞こうとはしなかった。気づかいなのか、興味がないのか判断できない。でも、ややこしい事情を抱えた珠子にとっては、それがむしろありがたかった。
しばらくして、先ほどと同じ店員が再び声をかける。耳打ちを受けたベイジルは、わずかに息を吐いて立ち上がった。
「今日、このあと予定は?」
「寝るだけです」
「枕が違うと安眠できない?」
突然の言葉に、珠子は目を瞬かせる。しかし、すぐに彼が二人分の支払いを済ませたことに気づき、意図を理解した。
「図太いので、どこでも寝られます」
「……上等」
彼の口元にかすかな笑みが浮かぶ。その笑みを見ると、なぜか胸の奥がざわついた。
有名人も楽じゃない。
この店は条件さえ満たしていれば誰でも入店できるが、店を一歩出た途端、そこは外の世界だ。防御力は限りなくゼロに近い。
いくら珠子に認識阻害魔法がかけられているとはいえ、誰に見られるか分からない。今日のように、偶然が重なることだってある。
「熱愛報道を狙われています?」
「分からない。ヤツらは勘繰りだけはうまいから」
その声音には、ほんの少しだけ疲労が滲んでいた。
珠子は、まるで諜報員にでもなったかのような気持ちで裏口へ向かった。案内する店員の足取りが迷いなく、慣れた動作なのがかえって怖い。こういうことは、きっと日常茶飯事なのだ。
通用口には淡い魔力の気配が漂っていた。夜気は冷たく、外の喧騒とは隔絶された静寂。遠巻きに感じる視線。気配を殺して近づく足音。そのなかに――ひとつだけ、異様なものが混ざっていた。
「こっちに来る」
ベイジルの声が低くなる。
大きな手が、珠子の手をしっかりと握り込んだ。触れた瞬間、体温よりも先に魔力の流れが伝わってくる。
「声を出すなよ」
言葉と同時に、彼の手から淡い光が零れた。風のない夜。空気が一瞬だけ凪ぎ、世界の音が遠のいていった。
「おい、いないぞ」
「チッ。ほかの出口から出たんじゃないのか?」
「魔法を使われたんじゃないのか?」
「探知魔法が作動してない。一旦正面に回るぞ」
男たちの足音が遠ざかる。珠子たちの背後に残ったのは、ほんのわずかな熱気と、張りつめた沈黙だけ。
ベイジルが使った魔法は認識阻害魔法の一種で、制約が多い代わりに省エネで使える。探知魔法で感知されれば終わりだが、そこは魔力量次第だ。今夜はどうやら、ベイジルの方が上手だったようだ。
「すまないな。巻き込んで」
「平気です。まあ、よくあることですよね」
「……よくある?」
「え、あ、いや、は、ハハ」
ごまかしきれない珠子の笑みに、ベイジルは小さく息を洩らした。
「偽名はあるか?」
「や、ありませんけど」
「では、今夜はルシア・ペルラと」
ポケットから取り出した紙片に、彼はさらさらと何かを書きつける。ホテルの名前と、部屋番号らしき数字。そして、几帳面な文字で記された名。
――ルシア・ペルラ。
「念のため、今夜はそれを使ってくれ」
「ここって」
「オレが契約している部屋だ」
「えっ、ちょ、そ、そんなの悪いですよ」
「大丈夫。話は通しておくから。手を離したら魔法が解けてしまうから、しばらくそのままで」
「先輩は?」
「オレは別の場所に――」
「乗りかかった船ですよ。この際」
ベイジルの目がわずかに動いた。
学生時代も、今も。彼はずっとそうやって瞳でものを語る人だった。なにも言わないのに、目だけが雄弁に心を映す。
「別行動の方がよければ、そうしますけど」
「今日はよくても、面倒な記事が出回るかもしれないんだぞ」
「それでも、先輩がひとりよりはマシでしょ」
小柄な身体で堂々と言い切る珠子に、ベイジルは数秒黙り――そして、静かに息をつく。
「……分かった」
その瞬間、彼の表情が少しだけ緩んだ。ほんのわずかに、昔の彼が顔を覗かせたような気がして、珠子の胸が温かくなる。
ふたりは気配を消したまま、細い路地裏を抜けて店を後にする。
珠子はスリリングな気持ちのまま歩き、ベイジルはなにを考えているのか分からなかった。
夜の風は少し冷たく、珠子は気づかぬうちに上着の前をきゅっと掴んでいた。
そのすぐ後ろで、ひっそりと誰かの足音が追ってきていることには――まだ、気づかないままで。




