第25話 前世は美人画のモデル
魔法は万能じゃない。
誰もが知っているのに、なぜかすぐ忘れてしまう事実だ。
ニーデラーナや周辺諸国には、魔力を持つ者が一定数存在している。炎を操る者、空を駆ける者、病や心の痛みを癒す者。確かに魔法は多彩だが、どの術にも制限と代償がある。つまり、魔法もまた不完全なのだ。
けれど、移転術や追跡魔法のような便利な術が普及するにつれて、人々はつい錯覚してしまう。
――魔法なら何でもできる、と。
情報のやり取りほど、魔法の限界が露わになる分野はない。記憶の改竄や記録の偽造が可能になれば、信用できるのは結局、人の口と心だけ。だからこそ、現代の情報戦は案外アナログなのだ。
雑誌に載るスキャンダルのほとんどは、魔法で作られた虚構。もちろん違法ではあるけれど、真偽を確かめるには金も手間もかかる。だから、人は都合のいい嘘を選ぶ。
それが、この時代の常識になっていた。
だけど、何百とある虚構のなかに、ひとつくらいは本物が紛れていることがある。
それを知るのは、いつだって当事者だけだ。
デパートの地上一階。人の流れがもっとも集中する中央広場に、ひときわ目を引くポスターが掲げられていた。
絵のように整った顔立ち。まるでエルフかと見まがう人物が、堂々とこちらを見下ろしている。
「美しい」という言葉は彼のためにある。
誰もがそう思うことだろう。でも、実際にその姿を目にすれば、言葉はすぐに無力になる。あの顔は、現実の解像度に合っていない。存在していること自体が奇跡のような人なのだ。
その名を知らぬ者はいない。
ベイジル・ロバーツ。俳優、モデル、時に歌手。どんな肩書きにも収まりきらない、多才な芸能人。
珠子は、そんな「神話の登場人物」と、かつて同じ学園に通っていた。
ベイジルは当時から異質だった。
清廉な空気をまとい、すれ違うだけで背筋が伸びる。思わず手を合わせてしまうのも、ごく自然な反応だったのだ。
それに気づかれていたと知ったのは、入学して初めての冬のことだ。
『それ、なんの意味があるんだ?』
凪いだ表情のまま問いかけられ、珠子は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
まともに挨拶したこともないのに、彼は珠子のことを知っていて、しかもその奇行を黙認していたというのだ。
あまりの恥ずかしさに、珠子は馬鹿正直に答えた。自分の国では「ありがたいものを見たら拝む」という習性があるのだと。
『――なので、あの、呪いとかではなくて』
『別に、咎めてない』
『え?』
『ただ気になっただけだ』
興味があるのかないのか分からない声色だった。
そのあと、珠子は思いきって聞いてみたのだ。
『単刀直入に聞きますけど、先輩って、女神の生まれ変わりですか?』
『違うと思うけど』
『……まあ、分かんないですもんね。前世なんて』
彼はほんの少しだけ考え込んで、ふっと笑った。その笑みを見られただけでも、徳を積んだ気分になったものだ。
今でも覚えている。あの笑みは、奇跡の一枚のように美しかったから。
テレビをあまり見ない珠子でも、ベイジルが映れば目が止まる。というより、止まらざるを得ない。驚くべきは、その美貌が十年前とまったく変わっていないことだ。むしろ磨きがかかっている。
化粧や照明の力ではない。もしそうなら、彼の愛用する商品はすでに市場から消えているはずだ。
ニーデラーナにはエルフという長命種が実際に存在する。だから世間では、こう囁かれている。「ベイジル・ロバーツは、本当に人間なのか?」と。
曰く、魔力をすべて若さの維持に使っている。
曰く、エルフの血を輸血している。
曰く、実は人形。
魔法省の見解では、完全な不老不死は不可能とされている。すべての生命は老いを避けられない。でも、ベイジルを見ていると、その定説さえ疑わしく思えてくるのだ。
それでも珠子は知っている。学園で見かけた彼は、ごく普通の学生だったことを。
寝癖をつけたまま登校し、購買で特売のパンを買い、制服に汁の染みを作る。
私服は白シャツに黒のスラックス。お洒落でもないが、あの顔面と脚の長さですべて帳消し。体臭まで美しいというのだから、もはや神の領域だ。
『ダイエット? したことない』
『肌のケア? 石鹸で顔を洗ってるだけ』
『いい匂い? たぶん、柔軟剤?』
凡人が聞いたら怒るような回答ばかりだった。
ちなみに、ファンからの贈り物は一切受け取らない主義らしい。
過去に雑誌のインタビューで欲しいものを答えたら、トラック数台分の贈り物が届いたという。中には権利書や金塊、人には言えない品まで混じっていて、事務所が悲鳴を上げたとか。
規格外の逸話に、珠子はただ笑うしかなかった。
モデルでも俳優でもないときの彼は、ただの素朴な青年だった。偶然、美しく生まれただけの、飾り気のない人間。
それを知っているからこそ、映像だけで見る彼の完璧さが少し怖かった。
「……今は、なにしてるんですかね」
誰に問うでもなく呟いた声は、ざわめきにかき消された。
けれど、その答えは、思いのほか早く返ってくることになる。
レダの紹介で足を踏み入れたのは、街外れの会員制バーだった。
知る人ぞ知るその店は、客のプライバシーをなにより重んじ、招かれた者以外は決して中に入れない。
こうした店にも一人くらい記者が紛れ込んでいてもおかしくはないし、人の口に戸は立てられない。従業員や客が口を滑らせることだってあるはずだ。でも、不思議なことに、ここは情報漏洩の起きない店だという。
隠れ家的な雰囲気と、妙に落ち着いた空気。
レダに渡されたカードを見せ、合言葉を告げるだけですんなりと奥へと通された。珠子は少しだけ緊張しながらカウンターの隅に腰を下ろす。
軽く一杯だけ飲んで帰るつもりだった。仕事終わりの喧騒から逃げたかっただけで、誰かに会う予定はない。
だからこそ、その姿を見た瞬間、息が止まった。
――ベイジル・ロバーツ。
完全なプライベートらしい。付き添いもいなければ、待ち合わせの気配もない。
それなのに、騒ぐ者は誰一人としていなかった。まるで、彼という存在が周囲の空間ごと隔離してしまっているかのような静けさ。
ベイジルは珠子を見ていなかった。見つかる前に退散しようと、「チェックで」と言いかけた。そのとき――
「帰るのか?」
「え」
振り向くより早く、すぐ隣にその顔があった。腰を浮かせた珠子の背に、軽く指が触れる。力でも合図でもない。けれど、拒めない圧。そのまま椅子に戻されるまで、珠子は息の仕方を忘れていた。
「久しぶりだな」
「お、お久しぶり、です」
在学中の彼は他人に興味がなさそうだった。珠子は彼の美しさに興味があったが、踏み込んだことはない。たまに会話を交わす上級生と下級生――それだけの関係だったはずだ。
「元気そうで、よかった」
穏やかなその一言が、妙に胸に響いた。彼はこの偶然の再会を、本当に喜んでくれているらしい。
こうして、数年ぶりの再会は静かに幕を開けたのだった。




