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第21話 存在しないアナグラム

 シシュティタリアとニーデラーナの間に、どれほどの距離があるのかは分からない。でも、珠子の身体を運ぶのに要した時間は一瞬だった。


「いてっ」


 この魔法陣は女を丁寧に運ぶ仕様ではないらしい。珠子は容赦なく硬い床へ叩きつけられた。背中から落ちた衝撃で、肺の中の空気が一瞬で抜ける。地面や水たまりではなかっただけましだが、せめて絨毯の上にしてくれればよかったのにと心の中で悪態をついた。


「いたた。ここ、どこ?」


 部屋は薄暗く、木製の天井と石造りの壁が無機質に広がっている。嗅いだことのある匂いの正体を突き止めようとした、そのとき――


「俺の家」


 不意に響いた低い声。珠子はびくりと肩を跳ねさせ、反射的に振り返る。


「ルーシッドさん?」


 薄明かりの中、立っていたのは見慣れた顔だった。


「おまえ、どこをほっつき歩いていたんだ。家出か?」


 呆れたような声。でも、その奥にわずかな安堵が滲んでいるようにも聞こえた。珠子がポジティブに受け取っただけかもしれないけれど。


「誘拐された人間にかける言葉としては、最悪ですよ」


 珠子は口を尖らせて立ち上がる。服の裾を軽く払って、不機嫌なふりをしてみせた。


「しっかり飯まで食ってきやがって。変な薬でも盛られてたらどうすんだ」

「なんでご飯食べてたのを知ってるんですか」

「聞いてたから」


 なにを、と聞かなくても分かる。魔法とは便利で不可思議で、珠子の想像や理解をあっさりと超越してくる厄介な存在だからだ。


「え、これ盗聴機能付きだったんですか? そういうのは最初に言っておいてくださいよ」

「文句はグスメロリに言え」


 聞かれたらまずいことは話していないはずだ。でも、自分が丸裸にされていたような気分になって頬がむず痒くなる。


 引きちぎった防犯ブザーは、見た目にはただのネックレスにしか見えない。魔法陣の展開は一度きりの使い捨て方式なので、アンリから新しいものをもらう必要がある。

 もっとも、ディロンには魔法具であることが知られてしまったので、次があるとしたら使い物にならないだろう。用意周到な彼が対策を練らないわけがないから。


「危機感を持て。癖の強い野郎ばかり引っかけてきやがって」

「それって、ルーシッドさんも含まれてますか?」

「馬鹿者。おまえはちっとも変わってないな」

「ちっともって……」


 珠子は分かりやすく顔を歪めた。ルーシッドの言葉をうまく飲み込めないまま。


「警戒心が足りん。おまえのいた国は治安がよかったかもしれないが、ここは違う。ニーデラーナもシシュティタリアも、人間以外の血が濃い。純粋な人間で、しかも女の魔力持ちは狙われやすいんだ。()()()()()

「……教えた?」


 普段は饒舌ではないルーシッドなのに、まるで過去をたどるようによくしゃべる。


「口酸っぱく言ったはずだ。軽率に魔法を使うな、ってな。俺と()()()()日を思い出せ。おまえは無防備になにをしていた? 誰がいるかも分からないのに、光魔法を使っていたな。あの場にいたのが俺じゃなく、裏社会に通じる者だったらどうなっていたか分かるだろう。誘拐されて、どこかに売り飛ばされたかもしれないんだぞ」

「ちょ、ま、待ってください」


 彼の口調は教師のそれだった。冷たくも、どこか懐かしい響きをまとっている。でも、目の前にいるのはヴィトリオルムとドムス・ヴェネニのオーナー――今は店長を名乗る――ルーシッドのはずだった。それなのに、なぜか昔の珠子を知っているような口ぶりでマシンガントークを続けている。

 そのとき、珠子はようやく気づいた。ルーシッドの手首に光る腕輪の存在に。


「待たん。()()()のおまえであれば呑気に飯など食わず、即座に魔法具を使ったはずだ」

「……え?」

「おまえの通り名はなんだった? 思い出せ。教師を使い魔扱いする女、タマコ・シモノソノ?」


 図ったようなタイミングで、ルーシッドが腕輪を外した。これはアンリが姿を変えるために身に着けていたもののはずなのに、現れたのは彼ではない。

 ニーデラーナ学園魔法科の教師、ヴェスル・クリドウェンがそこにいた。


「え⁉」


 思わず声が漏れる。現実が認識に追いつかず、思考が一瞬宙に浮いた。


「どうした。グスメロリかと思ったか?」

「いや、だって、その腕輪は」

「姿を変えるための魔法具だな」

「え? じゃあ、本物のルーシッドさんは?」

「偽名だよ、偽名。架空の人物だ。お堅い教師が本名でバー経営はまずいだろ」

「え⁉ でも、前にアンリ先生がルーシッドさんになってたとき、戻ってきた本物のルーシッドさんが『偽物が来たのか』ってわたしに――」


 正確な会話の記憶はおぼろげだが、決定的な違和感は思い出せなかった。


「俺は自分のことを本物とは言わなかっただろ」

「屁理屈!」


 ヴェスルは肩をすくめた。散歩中の犬が吠える様子を眺めるような目をしながら。


「うるせえな。そんなことより、ムシェが珍しく焦ってたぞ。連絡しておけ」

「え? あ、そうだ。ラスロくんに頼んだんだった」


 珠子は慌ててポケットを探る。


「おまえ、誘拐される前にブザーを鳴らそうとは思わなかったのか?」


 不意に投げかけられた問いは責める調子ではない。でも、答えを間違えたら説教が始まることを、珠子は過去の経験から学んでいる。


「これ、使えるのは一度きりじゃないですか」

「そうだな」


 珠子はちぎれたチェーンをヴェスルに放り投げた。


「相手の服装と顔つきが、シシュティタリア人っぽかったんです。うろ覚えだったけど、マカロック家の家紋っぽいものも見えたから迂闊なことはできないなって。あの人だったら違法行為も揉み消せそうだし」

「違法行為というのは?」

「市街地での攻撃魔法の行使。無許可で」


 ヴェスルが目を細めた。どうやら、珠子は正解を引き当てることができたらしい。


「それに、目的も知りたかったですしね」


 たとえ分かりきっていたとしても、本人の口から聞くまでは信用してはいけない。それを知るために危険を冒す必要はないかもしれないけれど。


「むやみやたらに抵抗せず、隙を狙って魔法陣を展開、でしょ? ヴェスル先生」

「教えた教師が優秀だったようだな」


 彼の口元がわずかにほころぶ。それは教師としての誇りと、教え子への信頼の入り混じった笑みだと受け取ることにした。


「一応、聞いておきたいんですけど」

「なんだ」

「わたしって、なんでまたニーデラーナに召喚されたんですかね」


 今ここで解明できると思っているわけではない。雑談程度の何気ない問いだった。


「召喚であれば、魔法省が気づくはずだ。悪趣味な妨害がなければだが」

「ディロン先輩の仕業、ってことはありえます?」

「どうだかな。わざわざニーデラーナに召喚するメリットがない」

「二度目の召喚のとき、どうしてすぐに駆けつけられたんですか?」

「おまえの魔力を感知したからだ。グスメロリが言っていただろ」

「でも、どうして架空の人物(ルーシッド)になる必要があったの?」

「……今日のおまえは、質問が多いな」


 聞きたいことは山ほどあった。

 魔法使いというのは意味のないことに全力を注ぎ、意味のあることは決して他人に悟らせないきらいがある。きっとルーシッドという偽名にも、その存在にも、深い理由はないのだろう。

 アンリもヴェスルも嘘をつかない。でも、真実を隠すことには長けている。珠子を騙すつもりであれば、躊躇なく証拠を隠滅させるだろう。彼らはそういう人だから。


「ちなみに、元生徒にSM嬢をさせるのはヴェスル先生の趣味?」

「馬鹿者!」


 女の敵とあだ名されたヴェスル・クリドウェンは、かつて魔法科の教師だった。軟派だが面倒見がよく、問題児だらけの生徒たちに慕われていた。珠子もその一人だ。彼は、「ガキには興味がない」と生徒たちを平等に扱ってくれたから。


「ヴェスル先生も学園を辞めちゃったんですか?」

「いや、俺は――」


 ヴェスルの口がふいに閉じた。あれほど饒舌だったのに、まるで魔法にかけられたかのように黙り込む。それはほんの一瞬のはずで、言葉の先を促してもよかったはずだ。

 でも、わずかな無音が逆に珠子の心をざわつかせた。勘違いかもしれないけれど。


「まあ、とりあえずラスロくんに連絡します」

「賢明な判断だな」

「なにか肝心なことを忘れている気がするんだよなあ」


 珠子は首を傾げながら電話を取り出した。


(誰か、もう一人。なにか、重要な――)


 そのとき、珠子はすっかり忘れていた。完全に抜け落ちていたのだ。誘拐直前に通話していた相手が誰であったのかを。

 そして、携帯の画面には、彼からの――リズワンからの、怒涛の着信履歴が並んでいることにも、まだ気づいていない。






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