第11話 砂の落ちない砂時計
リズワン・ホーガンロチェスターは昔から執念深い男だった。
砂糖壺にたかる蟻のように、ひとたび気になったら最後、どこまでも追いかけてくる。仕事熱心と言えば聞こえはいいが、とにかく粘着質なことで有名だった。
しつこいとか、陰湿とか、色々と言い方はあるけれど、塵ひとつ残さない小姑のような人格を持っている。
ルーシッドの正体が判明した今、調査はもう必要なくなった。
しかし、依頼主である珠子が先に真相にたどり着いたと知れば、目をぎらつかせて飛びついてくるに違いない。便利屋のリズワンが追っても尻尾を掴めない相手なんて、そうそうお目にかかれないからだ。
会ったが最後、平静を装いながらいつもより数倍早口の詰問モードになるだろう。いつかのテレビドラマで見たような取調室の刑事みたいに。
――なにを隠しているんですか?
――もったいぶらずに教えてください。
――僕を弄んでいるんですか?
このように、面倒なやり取りが延々と続くだろう。
アンリが関わっているのも、説明をややこしくする要因のひとつだ。ひとつを話せばすべてが芋づる式に明るみに出てしまうに違いない。珠子が日本へ戻ったことも、再び召喚されたことも、SMクラブで働いていることも。
かといって、でたらめを言ったところでリズワンを騙しきれるとは思っていない。問い詰められたら簡単にボロが出るだろう。一連の出来事が知人の悪ふざけと言ったところで無理がある。そんな一言では説明がつかないほど複雑な事件だったからだ。
珠子は自分を正直者だとは思っていないが、嘘を繕うにも限度というものがある。
(どうしたもんか)
想像するだけで胃が重くなる。いくらリズワンと気安い間柄とはいえ、経営者である彼とは交渉事の場数が違うのだ。うまい具合に口車に乗せられてしまうかもしれない。
悩んだ挙句、珠子は無難に電話によって調査の打ち切りを告げた。
『は?』
開口一番、よく通るいい声で聞き返されてしまう。
「例の調査は終わりにしてください。身の安全が保障されましたので」
『なぜそうだと言い切れるんですか』
リズワンの言っていることはごもっともすぎて、「そりゃそうですよね」と笑いそうになった。
「色々と事情があるんです。もちろんあのお酒を返せとは言いませんし、今日までの調査費用も払いますよ」
リズワンが金銭だけで納得するような男ではないとは分かっているが、とりあえず提案をしてみた。直後、大きなため息と口の中で言葉が掻き混ぜられるような声が聞こえてきた。
「先輩?」
『……お代は、ルクス・エクリプスのみで結構です。依頼を完遂したわけではないですからね』
「ずいぶんと良心的ですね」
『ルーシッド氏が何者であったか、聞いても?』
「それは、ちょっと。でも、わたしにとって無害ですし、リズワン先輩の敵ではないはずです」
『依頼主であるあなたがそう言うのであれば、信じましょう』
珠子の予想に反し、リズワンはこれ以上食い下がらずに殊勝な態度で言った。余計なことを言わない方がいいと理解しているのに、勝手に口が開く。
「正直、もっとしつこく食い下がられると思ってました」
『そうしたいのはやまやまですが、これ以上リソースを割くわけにはいきません。なんせ、僕はタマコさんの職場の所在地すら分かっていないんですから。きっと、スヴェルヴ氏がうまく隠しているんでしょうね』
「……わお」
これはリズワンの敗北宣言に近い。珠子が打ち切りを告げなければ可能な限り調べ続けたかもしれないが、口調からは悔しさが滲み出ている。
リズワンは執念深くて粘着質で面倒な男だが、一方で敵わないと悟った相手には潔く負けを認める一面もある。滅多に見られるものではないが。
『スヴェルヴ氏やこの件に関わっている人物が何者かは分かりませんが、相当な魔力を持っていると推察します。念のため聞いておきますが、脅されたり、言いくるめられたりしたのではないんですよね?』
「それは、はい」
『この電話も、あなたの意思ですね? 盗聴もされていない?』
珍しいことに、リズワンは珠子の身を案じているらしい。電話では証明しようがないが、珠子の意思であることを告げる。盗聴は分からないけれど。
『あなたが僕の敵にならないことを祈りますよ』
「先輩を売るほど情報がないですよ。わたしには」
『だといいんですが』
「今度、またお茶しましょう。ただの先輩後輩として」
ついでに「経費で」と言いかけて、やめた。きっといつもの調子で『お黙りなさい』と返されるから。
珠子の知らない十年の間に、リズワンも大人になったらしい。学生の頃にはない落ち着きと冷静さが、今の彼には備わっていた。
(そういえば)
なぜアンリはリズワンが浮遊術を不得手だと知っていたのだろうか。理事である彼が授業を受け持つことはほとんどなかったはずなのに。
(あの人のことだから、どこかで覗いていたのかもしれないけど)
神出鬼没で突拍子もないアンリの行動は在学中から有名で、珠子は「そういうものだ」と思い込むことにしている。理解できたためしがないから。
どうせ、リズワンをからかって情報を引っ掻き回すのが目的だったのだろう。アンリからすれば、誰も自分の正体にたどり着くことはできないだろうという確信があったはずだ。
電話を終えた珠子は、受話器を置いた手をしばらくそのままにしたまま、ふとアンリとの会話を思い出した。
『わたし、日本に戻ってから一年を過ごしたはずなんです』
『なるほど』
『でも、こっちに戻ってきたら十年も経っていて驚いたんですよね。念のために聞きますけど、わたしって急に老けたりしませんか?』
『ご安心を。それはありません』
アンリは相変わらずのすました顔で答えた。その口調は機械が読み上げたかのような正確さで、なぜかノイズよりも耳障りな響きを持っている。
『単に、年月の流れが違っていたということですか?』
『憶測の域を出ませんが、そういうことでしょう』
『じゃあ、わたしは次の誕生日に一歳だけ年を取りますか?』
『このままニーデラーナにいる限りは』
アンリは興味がなさそうに言った。当たり前のことを子どもに諭すかのように。
そして、なんの脈絡もなく転職先を紹介しようかと言ってきた。即答する必要はないとも言われたが、珠子はこのまま続けるつもりだと返す。単に稼ぎがよくて、秘密だらけの環境が性に合っている気がしたから。
(……物好きだな、わたしも)
珠子以外が成長した世界は未知なるもので溢れていた。
数歩先を行く男たちと対等に生きていくには勇気がいるが、多くの秘密が蔓延るヴィトリオルムの影は珠子を優しく包み込んでくれる。
時計は今も動き続けている。アナログ時計もデジタル時計も砂時計も、どれもすべて同じ時を刻んでいるはずだ。
だって、時計が狂うはずないのだから。