第10話 ミルフィーユにフォークを突き刺して
学園の理事を離れたアンリだが、今は魔法の研究機関に所属しているらしい。
魔法省管轄であるその機関の正式名称はとても長ったらしくて、一度聞いたくらいでは覚えられそうもない。誰が考えたのかは知らないが、「汎魔術理論応用研究所第二分室」だったはずだ。五回は聞いた。いや、六回かもしれない。
誰もそんなの覚えていないし、覚えようともしていない。アンリ曰く、研究者たちも口を揃えて「研究所」としか言わないらしい。結局、お役所なんてそんなものだ。言葉ばかりが立派で、中身は曖昧。
アンリはチラシの裏側にメモを走らせ、連絡先を書き終えるとすぐに帰っていった。煙のように現れて、煙のように消える。
珠子の今後の生活を強要しないし、過度なアドバイスもしない。その距離感に救われるときもある。けれど、だからこそ、自分の足で立つしかないと気づかされる場面も多い。ただの被害者ではいさせてくれない、あの人は。
そういう意味では優しい人なのかもしれない。そう思わせておいて、ただ無責任なだけなのかもしれない。珠子にはまだ、その線引きが分からなかった。
珠子が呆気に取られたまましばらく立ち尽くしていると、静かになった部屋にルーシッドが戻ってきた。なに食わぬ顔で。
ポケットに手を突っ込んだまま、いつもの調子で。そこにはいつもと同じルーシッドがいる……ように見えた。
それがアンリである可能性を捨てきれず、珠子はじっとルーシッドであろう男を凝視した。目の奥を覗くように、訝しげに。
「どうした」
「本物ですか?」
「なんだ、来てたのか。偽物が」
ルーシッドは察するのが恐ろしく早い。状況説明をすべてすっ飛ばした珠子の問いにも的確な答えをくれる。まるで、最初から話を全部聞いていたかのように。
「ルーシッドさん、アンリ先生と知り合いだったんですね?」
「まあな。旧知の仲だ」
旧知という言葉の響きには、長い時間と深い事情がにじむ。けれど、珠子にはそのどちらも分からない。ただ、聞きたいことだけは山のようにあった。
「いつアンリ先生と入れ替わっているんですか?」
「気まぐれだよ。あの人がふらっと来たときに」
「どれくらいの頻度で?」
「さあ……俺が知らぬ間に来て勝手に過ごしてたこともあるからな」
どうやら、アンリはアポなし訪問が常らしい。というより、そもそも他人のスケジュールに合わせる気がないのだろう。
「それにしても……どうして、今まで黙ってたんですか?」
「俺はただの雇われ店長だからな。言いなりだよ」
「……これからはオーナーじゃなくて、店長って呼びましょうか」
「好きにしな」
ルーシッドはまるで興味がなさそうだった。職種の呼称に頓着のないところは、ある意味いかにも彼らしい。
「アンリ先生、まだなにか隠してそうですよね」
「そりゃそうだ。あの人は昔から謎だらけだ。そのくせ、秘密にしている自覚はない」
言われてみれば、確かにそんな気がする。隠しているというより、そもそも話す気がない。自分だけが知っている世界を、当たり前の顔で持ち歩いているような人だ。
珠子はあきらめきったルーシッドの口ぶりに少し笑った。そうして笑いながらも、胸の奥に小さな靄がひとつ、残るのを感じていた。
──その夜、二人がそれぞれの部屋に戻ったあと。
部屋の静寂が足音を拾う。鈍い革靴の音が時計の針の音をかき消した。秒針のリズムよりも、少しだけ遅い。
ルーシッドは姿見の前で立ち止まり、整えた髪を乱し、首元のボタンを外す。ためらいなく、いつもの所作で。そして、手首を飾る腕輪を音もなく外した。
その瞬間、鏡の中に映っていた男が変わった。
頬の角度が違う。目の奥にあった光が、まるで別のものにすり替わっている。月明かりもない暗闇では、正確な瞳の色までは分からない。でも、誰がどう見たって別人だ。ルーシッドではない「誰か」がそこにいた。
その誰かは、鏡の中の自分をしばらく見つめて、かすかに笑った。意味深というより、意味がないことを知っている者の笑みだった。
──世界は、思っているよりもずっと多層的だ。
少なくとも、腕輪ひとつで顔を変えられるくらいには。
そして、その多層のいちばん底になにがあるのか、それを知っている者は、案外少ない。