第1話 招かれざる客
――異世界人、タマコ・シモノソノはどこに消えたか。
国立ニーデラーナ学園の卒業生が集まれば、話題は決まってそれだった。
卒業式当日も普段と変わった様子もなく、「またね」と笑って学園を去った彼女はどういうわけか忽然と姿を消した。
就職先が決まったと言っていたが、誰一人として正確な情報を知らない。仲のよかった生徒ですら架空の連絡先を渡されていたくらいなのだから。
教師陣を問い詰めた者は少なくなかったが、彼らは「なにも知らない」の一点張り。どうにか情報を吐かせようとあの手この手で揺さぶりをかけたが、本当になにも知らないようで、元学生たちの努力は徒労に終わった。
隣国の王族や大富豪の息子、優秀な学者に有名店の経営者、引っ張りだこの芸能人。そして、数多くの一般人。挙げたらきりがない人数の男たちが珠子を探していた。
しかし、いまだ彼女の情報は欠片ほども入手できていない。それなりの立場にある者が伝手をたどっても、実績のある探偵を雇っても足取りすらつかめない。
――タマコは元の世界に戻ったのではないか?
再会をあきらめるための言い訳のような泣き言。
それに賛同する者は少数だった。口に出してしまったら、彼女には永遠に会えないような気がしたから。
珠子の前に美丈夫が立っている。場に不釣り合いなのはどう考えてもスーツを着た男の方だが、自分の姿が滑稽に思えてしまうくらいには違和感がなかった。
ここの客は服を着ないものだ。布があるとすればパンツと靴下くらいなのに、この男は顔と首と手だけしか素肌を見せていない。招かれざる客であることは明白だった。
「所在不明のまま長らく話題に上るなど、指名手配犯も顔負けの人気ぶりですね。まさか、こんなところで再会できるとは思いませんでしたよ。タマコさん。いや、ドミナ・レヴェルサ嬢、でしたか」
皮肉を言うために生まれてきたような男だ。笑顔で塗り固められた鉄仮面には嫌味ったらしい台詞が似合う。
珠子の前に立っているのは予約していた常連客ではない。学生時代の上級生、デリク・ダヴェンポートという長身で人好きのする顔立ちの男だった。
久しぶりの再会だが、会話を弾ませる気はまったくない。言いたいことはいくつもあるが、ここは店で、珠子は店員だ。
とりあえずは当たり障りなく「ごきげんよう」と、殺風景な店内には不釣り合いなほど爽やかに微笑んでやった。学生であった頃を思い出しながら。
「なぜこちらへ?」
「この方をご存じですか?」
質問に質問で返す男は好きではない。
愛想笑いを崩すことなく、珠子は差し出された写真に視線を投げた。そこには数日前に来店した客と思わしき男が写っている。断言できないのは、写真の男の姿が珠子の知る客とはかけ離れていたからだ。
どちらにせよ、珠子の返答は最初から決まっている。この手の店は、従業員の口が堅いのはお約束なのだ。
「黙秘します」
「なかなか根性がありましたよ、彼。あなたに心酔しておられた。ここにたどり着くまで骨が折れましたよ」
写真の男は確かに珠子の客だった。毎回のように聖水プレイを懇願してくる変態だが、金払いはよかったので気に入っている。
プレイの痕跡を残さないようにシャワーを浴びろと口酸っぱく言っているのに、今回は言うことを聞けなかったらしい。オーナーに言いつけてやろうと思ったが、もう二度と来ないだろうという予感もしていた。
「……無事なんですか? その人」
「もちろん。あなたに泣いて詫びていましたよ。見上げた根性だが、随分と詰めの甘い変態でしたね」
笑みを深めたデリクだが、そうは思っていないことがありありと伝わる声色だった。これは珠子の答えを必要としない無駄なおしゃべりで、彼が求める言葉を返さなければ先に進まないことを嫌というほど理解している。
「ミイラ取りがミイラになる番じゃないんですか?」
「どうでしょう。あなた次第ですかね。ドミナ・レヴェルサ嬢?」
デリクは他人の機嫌を損ねることを大得意とする男なのだ。昔からなにも変わっていないことに懐かしさを覚えることもなく、珠子は盛大にため息をついて言った。
「やめてくださいよ、面倒ごとは」
「面倒だなんて。あなたに会いたかっただけですよ」
「それは嘘ですか?」
「嘘だと思っているんですか?」
「先輩がわたしに嘘以外言ったことあります?」
「ありますよ。失礼な」
今さらだが、珠子は過去の自分のキャラクターをすっかり忘れていることに気づいた。デリクに対して不遜な態度を取ったことは一度もないはずだし、それどころか、かつては分かりやすく怯えていた。
彼の立ち振る舞いだけを見れば紳士の鑑のような男である。在学中、声を荒げたり物に当たったりしたところを見たことがない。エキセントリックな生徒に囲まれた生活を送っていたので麻痺していたが、この男は「まだマシな方」という認識だった。
ただし、相手に不快感を与えることに関しては天下一品なので、何度揚げ足取りをされたか分からない。雑談の相手としては最悪だった。手放しで褒められるのは顔だけだ。
「じゃあ質問を変えますけど、先輩は客として来店したんですよね?」
「そうです」
「なぜ? どうせ知ってるでしょうけど、わたしは地上のバーでも働いていますよ。こっちで会う必要ありました?」
確かに面倒だったとデリクは言った。
「じゃあなんで――」
「女王様のタマコさんにお会いしたかったので」
「はあ?」
「お似合いですよ、ボンテージスーツ。制服姿のときは分かりませんでしたが、随分と魅力的なボディラインをしていらっしゃる」
「……先輩の方が似合うと思いますよ」
「僕に? それこそ嘘でしょう」
「嘘なんて言いませんよ。先輩じゃあるまいし」
ますます図太くなる神経と、すり減るばかりの羞恥心。
黒革のボディスーツは肌にぴたりと張りつき、まるで第二の皮膚のように珠子の体の曲線を強調していた。胸元からおへそにかけては大胆に開いており、そこに銀のファスナーが一本走っている。脚には網タイツ、その上から巻かれたガーターベルトが鈍く光を返す。
絵に描いたような女王様が鏡に映っていた。
「……あなた、本当にタマコさんですか?」
「ご自慢の鼻を疑うんですか? 優秀な獣人のデリク・ダヴェンポート先輩」
「ははっ。疑うわけがないでしょう。平凡な人間のタマコ・シモノソノ。あなたの可愛い下僕は、あなたの匂いをまとわせながら堂々と闊歩していましたよ。マーキングされたことを自慢するようにね」
珠子はデリクが口を開けて笑うところを初めて見た。余計なことを言うと墓穴を掘ると分かり切っているので、「そうですか」と相槌を打つだけにしておく。
「最初はこの男があなたを囲っているのかと思いましたが……くくっ。違いましたね」
「わたしが彼に監禁されていると?」
「疑ってもおかしくないでしょう。あなた、ご自分が懸賞首のような扱いをされていることをご存じないんですか?」
「ちょっと俗世には疎くて」
珠子はデリクを真似てにっこりと笑った。彼との間に線引きをするように。
「随分と笑顔が上手になりましたね」
「そうですか? 学生時代にいいお手本がいたからかもしれませんね」
「それはすばらしい。その方にお礼をしたらどうですか? 今の方が魅力的ですよ」
「おほほ。ありがとうございます」
冗談のような笑い声と軽薄な謝辞だ。安っぽい深夜ドラマの主演俳優の方がよほどまともな演技をしているに違いない。
デリクを苛立たせてさっさと帰らせようと思ったが、彼の機嫌は一向に悪くならない。今後の自分の平穏な暮らしのため、適当に相手をした方がいいような気がしてきた。
「先輩、お仕事は?」
「これが仕事のようなものですよ。あなたの客と取引でしたので」
「予約枠を奪うことが?」
「予約は変わっていただきましたが、オーナーには了承を得ておりますよ」
差し出されたのはオーナーの名刺で、そこにはサインと「予約客変更」というメッセージが書かれている。筆跡は確かに見慣れたもので、捏造されたものではないと判断できた。
金を積んで割り込んでくる客も珍しくない。どちらにせよ珠子にとって客は客なので、無理な要望がない限りはオーナーの指示に従うことにしている。
「こういうのは先に渡してくださいよ」
「すでにご存じかと思いまして」
「オーナーが先に渡せって言ってませんでした? ルールに従ってくれないなら帰ってください。そして、もう二度と来るな。ブラックリストに突っ込みますよ」
「すみません。チップも多めにお支払いしますので」
「まいど」
話が早い男は好きだ。
珠子が普段働いているのは「ヴィトリオルム」というオーセンティックバーだが、地下には「ドムス・ヴェネニ」という会員制のSMクラブがある。自分でも信じられないが、珠子は兼業女王様として二足の草鞋を履いていた。
バーで酒を飲むだけの健全な客の方が圧倒的に多いが、場所は裏通りで看板も出していない店だ。それにも関わらず客足は絶えないから不思議である。
偶然に偶然が重なって女王様業をしているわけだが、最初は当然「自分にはできない」と突っぱねた。なにがどうしてこうなったのかというと、とどのつまりは金が必要だった。それだけだ。
『きみは、この仕事に向いてるよ』
そう言って笑ったオーナーの素性は謎に満ちていたが、見目麗しく不審な男は学園で嫌というほど見てきた。外見に惑わされはいけないと学んだのもその頃だ。
今もオーナーを完全に信用しているわけではないし、危険がないと言えば嘘になる。でも、秘密主義が徹底されたこの空間を悪くないと思うくらいには気に入っていた。
指名客が増えれば給料も増える。生活に困窮しているわけではないが、金は多いに越したことはない。
(お得意様だったのにな。もったいない)
客の個人情報は知らないし、知ろうとしたこともない。オーナーから与えられているのは「それなりの身分や立場のある金持ち」というふんわりとした情報だけ。
余計な詮索はしない方が身のためだ。非日常を求めて来店する客の素性を知ってしまえば仕事に支障が出るに決まっている。
普段の姿はまったく重要ではない。誰もが珠子の客という平等な立場なのだから。
「ちなみに先輩って、わたしの居場所を言いふらしたりします?」
「さあ、どうでしょう。あなた次第ですかね」
「料金分きっちりお相手しますから。初回なんでサービスしますよ」
「僕が鞭で叩かれるということですか?」
「やめてくださいよ。そんな趣味はないです」
「それがあなたの仕事では?」
「仕事ですけど、デリク先輩がパンツ一丁で喘いでいるところは見たくないです」
「なぜパンツ一丁なんですか?」
「それが正装なので。うちの奴隷の」
再会して初めてデリクの表情が歪み、珠子は腹から声を出して笑った。とても気分がよかったから。